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針が動き出すのを待っている

誰かを傷つけるのが苦手だった。
自分を傷つける勇気はなかった。
行き着く先はいつも物だった。
でも物が壊れるのは嫌だった。
控えめに壁を叩くしかなかった。
誰かに気づいてほしかった。

分からなかった。
助けを求める方法が。
分からなかった。
苦しいと言ってもいいことが。
分からなかった。
そもそも苦しんでいるということが。


ある日、ちょっとした癇癪で蹴り上げたソファが壁に大きな穴を開けた。
急速に世界の色が褪せていくのが分かった。
僕はこっそりと溜めていた2万円を母に叩きつけ、部屋に閉じ籠った。
その日から壁すらも殴れなくなった。

自分を傷つけられる人は尊敬する。
僕が死にたい人に心惹かれるのは、
たくましく見えるからだと思う。
死にたい人は美しい。
僕はそこまで命を燃やせない。
心を塞ぎ込むことしかできないから。

学生時代は小学生の頃となんら変わらなかった。
パソコンのフリーゲームに溶かして終わった。
何も感じることはなかった。
心は平穏だった。
悩みなんて何一つなかった。
淡々と日々が過ぎていった。
青春適齢期に思い出は何もない。


10年後。
家庭に暴風を吹き荒らした兄が実家を去って2年ほどが過ぎた頃、
ある言葉をきっかけに、止まっていた時計の針が動き出した。
当時好きだった人からの言葉。

「その友達はどんな人なの?」

僕は言葉に戸惑った。
まだ分離できていなかった原始的な感情が腹の底にどっしりと落ちるのを感じた。
友達のことを知らなすぎた。
深い話をしたことがなかった。
言葉の紡ぎ方も分からなかった。
人を見る目もなかった。
オーラの近い人とつるんでいただけだ。
孤独を回避するために。
自分がいかに薄っぺらい人間かを痛感した。
友達のことすら満足に紹介できない自分が悔しかった。
そして昔から感じていた劣等感をはっきりと自覚した。
『僕は言葉が苦手だ』


思い返せば実家で発する言葉は極端に少なかった。
平均して一日30文字くらいだろうか。
母の「おかえり」にすら返さなかった。
上っ面だけ取り繕う両親が嫌いだったから。
幼い頃のホームビデオを見ても、何かを観察しているか、ニコニコ楽しそうにしているだけで、言葉を発する子どもではなかった。

会話は僕を除いて行われていた。
いや、うちの家族に会話なんてものはない。
みんながそれぞれ、話したいことを話していた。
そこに鈍臭い僕の入る余地はなかった。

家族には期待していなかった。
ふと言葉を漏らしてもどうせ聞いてもらえない。
何を話してもすぐに向こうの話に変わる。
それだけは幼い僕にも分かった。

話したいことがあったわけではない。
ただ、話を聞いてもらいたかった。
じっくり耳を傾けてほしかった。
せめて、次の言葉が出るまで待って欲しかった。


僕はまだ15歳だ。




─​──────   ───  ── ─ ​·


針が動き出すのを待っている。

いつか時を忘れた氷が
陽の光で溶けだして
煮詰まった喉の奥から零れ落ちるまで
空をぼんやりと眺めて待っている。

心があるとするなら、腹の底だと思う。
そこに眠る怪物。
そいつが蠢くことで初めて針が動き出す。

怪物が暴れまわるのを心待ちにしていると言ったら怒られるだろうか。
世は悲しみに満ちていると言うのに、
あろうことか僕は悲しみたいのだ。
人間の舞台にすら立てていないから、
涙が流れると、僕は安心する。
少しだけ、自分を許せる。

心を閉じこめた人に価値なんてない。
毎日世界に怒られている。
道行く人に説教されている。
ずっと涙が流れていればいいのに。
きっと心の色は美しいだろうに。

どうか、苦しむから許してほしい。


苦しむから。    許してほしい。


朝起きた時、怪物が目を覚ましていると、
今日はいい一日だと感じる。
布団にくるまって、何もできないほどに苦しいけれど、
愛しい傷跡に居場所を見つけられる。

でもきっと数時間後にはこの怪物も眠ってしまう。
また時計の針が止まってしまう。

早く書かなきゃ。



***


今、針が動き出すのを待っている。

僕が死んで、君に入れ替わるのを心待ちにしている。



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