「フェイク情報とエコーチェンバー環境の生活」の第二回です。(前回のシーズン名称を改題したよ。誰も気づかないと思うけどw)
第一回はフェイク情報に焦点を当ててみたのだった。つーか、この世の情報って多少の違いがあってっも、すべての情報はフェイク部分(情報操作の意図があっても、なくっても)を含んでいるっていう試考でした。
今回はエコーチェンバー環境と銘打って、情報の受け手の周囲を試考してみます。フェイク情報とエコーチェンバー環境はセットなのだ。そんな見立てです。
娘「エコーチェンバーって何?」
父「ネットなどで自分と似た興味関心を持つユーザーとつながるとさ。自分と似た意見ばかりが返ってきたりするじゃないですか。すると、特定の情報を過剰に信頼しちゃったっり、一緒に反発したりしますよね。そんな状況をエコーチェンバー現象とか、効果とか言うらしいです。直訳すると「反響室」です。こだまがずーっと繰り返し響く場所ですな」
娘「あー、友達のグループとかで、誰か他の生徒の悪口を言って盛り上がっているやつね。あれ、嫌なんだよね」
父「だいたいそんな感じ。そのうち、きっとクラス全員、あの人のことを良く思ってないはずだってなっちゃうと、結構、痛いよね」
娘「実は、そのグループ自体がクラスから煙たがられたりして・・・。なんか面倒くさい現象だね」
父「まさに、教室の中にある反響室」
◼️エコーチェンバー環境の実害から試考する
まずは、ざっくりとエコーチェンバー環境にいることでの負の影響を、ざっくりと眺めてみます。どのような実害になるのかを生成AIにレベル分けしてもらいました。 第一回でやったフェイク情報に沿って、5段階で分けます。
意外と、4の軽度、5の非常に軽度あたりが新鮮ですね。エコーチェンバーがいつ・どこにもある世界だって捉える方が筋が良さそ。集団とはチェンバーの側面を常備しているのです。
さて、第一回と同様にピラミッドにまとめてみます。図表328
ここでの5段階とは小生の恣意的な区分けです。これって、前回の<その1>で描いたフェイク情報と対称性がありそなので、同じ5段階にしたのでした。
では、フェイク情報の5段階と、今回のエコーチェンバーの5段階を並べてみます。
フェイク情報は、どうやっても全ての情報にはフェイクが入り込んできてしまうので、「情報の混濁」と言えます。すると、この対称にあるエコーチェンバー環境に意味を与えるなら、意図せざる過剰な反復ってことなので「情報の濃縮」って言えそうです。
本人を中央に置くと、左側のフェイク情報発信側に誰かがいて、右側にはエコーチェンバー環境で同室にいる誰かがいる、っていう試考ができます。混濁した情報が濃縮して、それに包まれて「私」は日々生活しているのだった。
◼️エコーチェンバー環境の範囲
今度は、エコーチェンバー環境を広がりとしてみてみましょう。別に、特定の友達グループに限ったことじゃないところを可視化します。まずは、エコーチェンバー現象が起きやすい集団カテゴリーを、生成AIに提示してもらいました。
AIから出てきたのは6つ。図解で可視化してみます。
生成AIが提示した六番目の個人は、エコーチェンバーの最小単位と考えることができそうです。この個人の頭の中も閉じた部屋ってことですな。一人の人間の頭蓋骨をエコーチェンバー環境の<基底>としてみます。
また、人類全体だって閉じた集団と見做せるので、その最大形としてみました。なので、人類全体は<枠外>に置きます。この<基底>と<枠外>の間を5つの集団にして、波紋形にまとめたものが図表331です。
ここで示したいのはエコーチェンバー環境が幾重にも取り囲んでいる中に私たちがいるってことです。日々、この中で生活を営んでいるってことです。何やっても、何を聞いても、何を語っても、エコーチェンバー環境からは抜けられないのでした。
◼️個人の反応から試考するエコーチェンバー環境
エコーチェンバー環境が普通だって言い切っちゃうと、そこで見通しはなくなっちゃいますね。押し込みます。
実は、エコーチェンバーな状況が心地よかったり、都合が良かったりするのではないか?。「エコーチェンバーを支えてるのは自分ちゃうの?」という問いから進めてみます。 エコーチェンバー環境が成立してしまう理由を試考します。生成AIに、形成の理由やパターンについて目配せの範囲を提示してもらいました。
AIからは7つの要因が出てきました。もう少し「見通しをよくしたい」ので、上位に階層をいれて再整理してみました。
解説します。
大きく3区分してます。 (番号)はAI提示の元番号です。
・個人の態度
「個人の態度」には(1)心理的関与と(4)認知的課題が入ります。心理的関与は、確証バイアスであり、自分の信念を肯定することを優先するために、それに沿った情報を受け入れてしまう態度です。一言で言うなら、アイデンティティ優先。つまり、自分の信念が揺らぐと、自分の存在が揺らぐ気がしてしまうわけです。認知的課題は、あまり難しいことを考えたくないという、知的怠惰な態度です。考えるの面倒だから、手っ取り早さを感じる情報にOKを出す。まあ、いい意味で言うならスピード優先。「もう、その件はこの情報が正しいってことにする」って感じ。
・集団との関係
(2)社会的課題の同調圧力とグループシンク(集団浅慮)は、有体に言うならピアプレッシャーですな。「みんながそうなら、私の意見もそれ」っていうエコーの受け方です。一言で言うと、ベストセラー優先です。最も売れてるのを買う、ですかね。(5)文化的課題は、気づきと愛着感です。過去の延長線上を優先して、慣れ親しんだ情報を優先的に受信していきます。これも、メタファー的な言い方で言うなら、ロングセラー優先かな。長く売れてるものに馴染みを感じるから、優先する。(6)社会的ネットワーク効果は、ホモフィリー現象(Homophily)で、類似性に従って情報選択し、それをエコーしていく受信の仕方です。「同じ学校の出身!」みたいな、情報の質には全く関係ないけど、自己投影できると、その情報は優先されてしまうパターン。型としては自己投影の優先。
・ネット社会の特質
この2つは特異なパターンですが、これこそエコーチェンバーを下支えしてるものかもしれない。(3)技術上の課題は、アルゴリズムが同質化させる方向に情報を提示していくことで、機械的なエコーチェンバーができてしまうパターンです。これ単体では悪さはしなくても、SNSで同じ広告を見続けさせるのは、サブリミナル的な情報偏向になりますね。機械的な優先です。(7)経済的制約は、メディアの収益としての属性に沿った情報を購買行動につながるようにエコーチェンバー化させていくわけです。アマゾンっぽいかw。確かに、どのECサイトもエコーチェンバーになろうとして設計されてますから。金銭的な優先です。
◼️集団群と理由群でマトリックスを試考する
さて、エコーチェンバーの場としての集団。そして、エコーチェンバーの可動としてのパターン。この2つが出揃ったので、マトリックスでぶつけてみます。
チェンバーの種類が、集団カテゴリーの違いです。5つのエコーチェンバーごとに7つの成立理由で、関係が近しいものに○をつけてみました。
そして、このマトリックスを眺めて言えそうなことを試考してみたのが下図の図表334です。
三つぐらい語れそうなところがあります。
・「集団の規模」による2極分離。
大きくなればなるほど、同調圧力を強く感じたエコーチェンバーになる。「長いものには巻かれろ」が横行し出す
この反対に、小さくなればなるほど、ホモフィリー現象(類は友を呼び、朱に交われば赤くなる現象)が強くなる。境遇が似ていることでの、エコーチェンバーです。「同郷を信じる、家族を信じる」とかね
・「集団の濃度」の影響
結局は、情報の前に人ありきであり、人は長く文化に晒されてできてるってことです。文化的に親しみのある情報でエコーチェンバーが起きるのは、不安な情報になればなるほど前面に出てきます。我が国は、我が神は、我が一族はみたいな歴史的な背景とくっついちゃうと、偏った情報のエコーチェンバーを許しちゃうのでしょう。
・「時代の潮流」の意味
機械的エコーと金銭的エコーはネット社会らしいものです。SNSならではです。だからと言って、他の集団に関係ないかと言うとそうでもなさそうだな。国や企業なんかはネットを使って民意や企業への好意度をコントロールしようとしているので、技術的なエコー作りは集団の階層を越えつつあります。ここはAIの高度化も含めて、全ての階層で起きているエコーチェンバーを強化していくでしょう。受信者は気がつくことができないぐらいの高度さで。
娘「でもさ、エコーチェンバーでいい時も、結構あるんじゃないの。推しのボカロPさん好きのコミュニティなら、楽しいだけじゃん」
父「ええ、その通りです。だからと言って、誰もがそのボカロPさんを知っているはず、っていう前提で話さない方がいいよ、ってことかな」
娘「たまに、トーチャンに熱く語るのは、止めるようにするよ」
父「まあ、実害はないんだけどさ。それに音楽ってクリエイティブですからね。ある意味、美しいフェイクですよ」
<おまけと予告>
◼️情報諦観者(じょうほう・ていかん・しゃ)を目指す
語るのも虚しいほどに、エコーチェンバー環境にどっぷり浸かって生きている私たちなのです。でも、気づいた以上は態度に出していきたいものです。ええ、理想的な情報態度とは、フェイク情報を見極め、エコーチェンバー環境から距離を置くような生き方です。
そういったものの・・・残念ながら、やはり、無理かもしれない。
いや、可能かどうかと問われるなら、可能ではある。
フェイク情報にもエコーチェンバー環境にも埋没しない生き方とは、全てに行動を優先する人だろう。情報からの混乱の前に動けば情報はいらないし、情報の前に動くならエコーは聞こえてこないのだ。
もうひとつは、老荘思想的な生き方だ。山に籠って、淡々と生きるならフェイクか、フェイクじゃないとかは意味がない。森に囲まれて生きるなら、自然の音だけがエコーするのみだ。
うーん、気取って、達観者のようなセリフを吐いてみたけど、生活感なし。地方在住の子育て中のオヤジには遠すぎる。
ということで、行動先行でもなく山谷隠遁でもない第3の情報態度を試考してみます。それが情報諦観者・・・だと思うw
Go with the flow.