人が人を
「人が人を」ってどういう意味だろう。
「人間という生物が、人間という生物を見て」
という話なのか
「自分と認識するものが、自分と認識する以外の人間とされている何かを見て」
なのか、
「自分が他を見て」
というだけなのか
この話の趣旨は何か?
「人が人を」
「人」って言うほど、人として見ていないよね。
と言う話。
もう少しまともに言い換えると、
人の話を聞く
人を見て判断する
人に思いやりを持って接する
この「人」とは、ただの「人間」と言うふうに見えるものに対しての扱いの話であって、
多分「自分と同じもの」と言う認識は薄いのだろうと思って。
さらに簡潔に言うと、
「人」っていう「他人」を、ただの「他」として扱うだけで、自分である「人」と同じものだと思ってない人が多いよね。
と言う話。
いやいや、自分も人間で相手も人間って知ってるのよ!
まぁそれは「形」の話で「扱い」と言った点での、
貴方の思考でしたり捉え方ではないでしょう。
結論先に言うと、
およそ「人」という「他人」を、「他人」というただの動く建物くらいにか思ってないでしょう?というものです。
例えば、
ショッピング。
横を通った人
要は、横を通った何か
目の前で会議をする相手。
話している人間
要は、ただの動く立体的な映像
貴方を罵った誰か。
つまらない話と声と質
要は、何も写っていないようなもの
ただの個人的な感覚の勘違いでは?と思われるかもしれませんが、否定もしません。
そうである事をそうあることすら見た事がないからそれもまたそういうものです。
貴方は貴方を鏡でしか見ることのできないように、貴方が知る全てはおそらく見たことから形成される。
つまり、貴方自身とその他人間含めた建物なりなんなりとの直接的な比較というものは、間接的には可能であるが物理的に直接可能ではない為、要は、貴方は貴方のことを「人間」とも究極理解できないし、その他全てが人間含めて何であるかなど分からないよねと言うことです。
簡単に言うと、
貴方の体って、貴方の見る空間の中に居ないでしょ。
というだけです。
だから、
貴方が意図的に、貴方という「(人間という生物の)人」と、貴方の見る空間に存在する「人(と言われるもの)」が同じであると認識しない限りは、思いやりも暴力も語るに足りないのだろうと思います。
思いやりを何故問わなければならないのかも、
暴力の否についていつまでも述べ続けているのも、
結局彼らは自分と思っている体と、彼らの見える空間に居る人間の体が本質が同じであると理解できないからである。
理解できるのであれば、
それを述べる必要すら幾分も悲しいことであると理解できるだろう。
おわり。
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