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戦国note

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#徳川家康

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

真田幸村 愛馬の墓 大分県碇山(おおいたけん いかりやま)

大分県大分市津守 碇山 にて真田幸村(さなだ ゆきむら)の愛馬の墓があるので見学に行ってみました。 なぜ。真田幸村の愛馬が大分にあるのかというと・・・。 このお墓の馬は、大阪冬の陣・夏の陣の際に、真田幸村が乗馬した愛馬であったとされます。 大阪夏の陣で徳川家康(とくがわ いえやす)の孫・松平忠直(まつだいら ただなお)の家臣である西尾宗次(にしお むねつぐ)が真田幸村を安居神社付近で討ち取りました。 家臣の手柄は、主君の戦功ですので、この功績により、捕まっていた真田幸村の愛馬

大名の分け方は「親藩・譜代・外様」でいいのか

 江戸幕府を開いた徳川家康は、全国の大名を3つに分けた、と歴史の授業で習います。 1.将軍家の親戚である親藩(尾張・紀伊・水戸の御三家、会津や越前の松平氏など) 2.代々の徳川家臣である譜代大名(井伊氏、酒井氏、阿部氏など) 3.関ヶ原合戦の前後に徳川家に臣従した外様大名(島津氏、伊達氏、細川氏など)  親藩や譜代大名は要地に置かれる一方、外様大名は江戸から遠い辺境に置かれた…と習った人が多いと思います。  しかし、大名の分類に「これが正解」というものはありません。笠谷

【書評】渡邊大門『豊臣五奉行と家康』(柏書房)

 一般的に、関ヶ原の戦いは「豊臣秀吉の死後に主導権を握ろうとした徳川家康と、それを阻止しようとした石田三成の戦い」と認識されていると思います。  しかし、近年は研究の進展が著しく、合戦のとらえ方はかなり変化してきています。例えば、合戦中に寝返ったとされてきた小早川秀秋は、実は開戦と同時に裏切っていた、という風に認識が変化しました。  本書は、「豊臣五奉行」に焦点を当てて、関ヶ原合戦に至る権力闘争を概観しています。 五大老・五奉行とは 五大老・五奉行は、豊臣政権を支えた有

【書評】柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社)

 来年の大河ドラマの主人公である徳川家康。創作の中では、「人質から天下人になった苦労人」「信長や秀吉に信頼された律儀者」「豊臣家を滅ぼした陰険な狸親父」など、一定のパターンで描かれているようです。  しかし、近年の研究の進展により、古い家康像は書き換えられています。2017年刊行の本書も、そうした成果の一つといえるでしょう。 「境界の領主」としての徳川家康 本書の副題で、繰り返し出てくるキーワードが「境界」です。異なる勢力が接する境界では、領土紛争が頻発します。  戦国

【関ヶ原合戦 コラム】石田三成襲撃事件

2021年4月から趣味で「関ヶ原合戦」に関する書籍や記事を読んでいます。関ヶ原合戦やその周辺の事件については諸説あり、私も一読者として楽しみながら、自分なりに解釈をしながら、合戦の真の姿を想像しています。 そのような中、この記事は様々な書籍等を参考にしながら、私自身のノート代わりにまとめています。私はあくまで関ヶ原合戦「愛好家」なので、内容の是非はあるかもしれませんが、ご容赦のほどを。 今回は、慶長4年閏3月の石田三成襲撃事件についてまとめました。 (この事件が起こった

【関ヶ原合戦 年表③】慶長5年(1600年)7月~

豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。 関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。 いよいよ関ヶ原合戦の本戦に突入です。

【関ヶ原合戦 年表②】慶長5年(1600年)1月~6月

豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。 関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。 今回は激動の慶長5年(1600年)で

長宗我部盛親で考える🤔~最後まで勝ちへの執念を持ち続けるには~

私の住んでいる場所の近くには、長宗我部氏ゆかりの地があります。長宗我部氏と聞くと、歴史好きの方なら、「土佐(高知)なんでしょう?」なんて思われるでしょうが、実は京都府なんです!今でも京都の伏見桃山城(再建築)辺りには、豊臣秀吉時代の大名屋敷のあった場所が普通にその大名の名前で町名になってたりしますから、そんな感じ? ※再建された伏見桃山城(京都市伏見区) ※京都市伏見区の町内看板 いやいや、もっと熱い🔥漢🧔のロマンやハードボイルドを感じるお話。 それは、「長宗我部盛親

【関ヶ原合戦 年表①】慶長3年(1598年)8月~慶長4年12月

豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。 関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。 随時作成していく予定です。 慶長3

失敗から学ぶ (戦国時代編)

サムネの武将の肖像画が誰か、わかりますか? これは、実は徳川家康の肖像画なのです。もっと言えば、若い頃武田信玄に大敗した直後に、自分の「しかめっつら」を絵師に書かせた肖像画なのです。 ▼ 短気で血気盛んな徳川家康徳川家康といえば、豊臣陣営に大坂の陣を引こ起こさせるような「狸親父」というイメージがあったり、”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス” の句でも有名な通り、豊臣秀吉が亡くなるまで辛抱強く待ち続けたイメージが、一般的にはあるかと思われます。 しかし、実は短気で血気

大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1614~15年の大阪の陣において豊臣氏を滅ぼし、天下泰平を実現した。  豊臣氏を追い詰めた家康のやり方に関しては、「陰険な狸親父」のイメージがつきまとう。例えば、大阪の陣のきっかけとして次のような話が知られている。 「方広寺鐘銘事件」のあらまし 豊臣秀吉が建立した方広寺の梵鐘(巨大な鐘)に、「国家安康」「君臣豊楽」という文句があった。豊臣を滅ぼす機会をうかがっていた家康は、これに目をつける。「豊臣」を「君子」にする一方、「家康」の二文

吉川広家で考える🤔~ランチのタイミングを誤るとどうなるのか?~

前回、明智光秀で考える🤔「新説!山崎の戦い!」で、余りにも長文になったので、今回は、前回より短めで行きたいと思います。 仕事をしている人なら、一度はこの問題で迷ったり、悩んだり、実際に人間関係がこじれたりした人もいるのではないでしょうか? そう、「ランチのタイミング問題」。 まさか、明らかに職場が忙しい最中に行く人はいないだろう?と思うのですが? これがなかなか、行ってしまう人もいるんですね! そんな「タイミングの悪いランチに行ってしまった戦国武将」のお話。 「関ヶ

【戦国】徳川家康(1543年~1616年)

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」 徳川家康の気性をよく表しているといわれていますが、実際の家康は三河出身の気性の荒い、激烈な人物であったといいます。家康は三河の国人松平氏の出身で、今川氏や織田氏に挟まれ、幼少期を今川氏や織田氏の人質として過ごします。1560年、今川義元が桶狭間で討たれると、織田信長と同盟を結び、運が開いていきます。  信長亡き後は、豊臣秀吉が天下人となり、五大老筆頭となるものの、住み慣れた三河国から関東への転封を余儀なくされます。当時の江戸(東京