【関ヶ原合戦 年表①】慶長3年(1598年)8月~慶長4年12月
豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。
関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。
随時作成していく予定です。
慶長3年8月
8月18日 豊臣秀吉、伏見城にて死去(62歳)。
8月19日 徳川秀忠、伏見を発ち、江戸へ帰国する(『慶長見聞集』他)。
8月25日 五人の奉行衆、徳永寿昌・宮城豊盛を朝鮮半島に派遣し、朝鮮在陣の諸将に豊臣秀吉の朱印状を渡して慰労し、陣羽織を贈る(「立花文書」他)。また、徳永寿昌・宮城豊盛に対して最終的な和平案を提示する。
8月28日 徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家、朝鮮在陣の諸将に朝鮮との和睦、軍の撤退を指示する(『黒田家文書』)。この書状の中で、軍の撤退のために毛利秀元・浅野長吉(長政)・石田三成を博多へ向かわせることを伝える。
慶長3年9月
9月3日 徳川家康・前田利家ら五人の大名、石田三成ら五人の奉行と誓約を交わし、豊臣秀頼への忠誠を誓う(『浅野家文書』『毛利家文書』)。
慶長3年12月
12月24日 石田三成、島津忠恒らを伴って大坂に到着する(『薩藩旧記雑録後編』)。
慶長4年1月
1月3日 島津龍伯(義久)、惟新(義弘)・忠恒父子に謀反の意思がないことを誓う(『薩藩旧記雑録後編』)。また、徳川家康との交流についても弁明をする。
1月10日 豊臣秀頼、父秀吉の遺言(『早稲田大学図書館蔵文書』)に従い、伏見城から大坂城に移る。
1月19日 徳川家康、無断で伊達政宗ら諸大名と婚姻の約束をしたことを、前田利家ら大名、五人の奉行から追求を受ける(『言経卿記』)。
慶長4年2月
2月5日 徳川家康、前田利家ら大名、五人の奉行と誓約を交わして決着する(「諸将感状下知状幷諸士状写」)。
2月29日 前田利家、伏見の徳川家康を訪ねて和解する(『当代記』『亜相公御夜話』)。また、向島に移ることを勧める(『三河物語』)。
慶長4年3月
3月11日 徳川家康、大坂に出向き、前田利家の病気を見舞う(『國田文書』『碩田叢史』『大阪城天守閣所蔵文書』)。
慶長4年閏3月
閏3月3日 前田利家、大坂で死去(62歳)。
閏3月4日 これよりさき、細川(長岡)忠興・蜂須賀一茂(家政)・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長の七将、石田三成を除こうと謀る(『譜牒余録』)。
この日、三成、大坂から伏見の自邸へ逃れる(『多聞院日記』『板坂卜斎覚書』、笠谷和比古『関ヶ原合戦』)。
閏3月9日 徳川家康、両者を仲介し、石田三成は佐和山に謹慎となる(『浅野家文書』他)。
閏3月13日 徳川家康、伏見城西ノ丸に移る(『多聞院日記』)。
閏3月21日 徳川家康・毛利輝元、互いに「兄弟」「父兄」の関係であることを誓う(中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』中巻、『毛利家文書』)。
慶長4年4月
4月2日 徳川家康、島津惟新・忠恒父子をおろそかに扱わないことを誓う(『島津家文書』)。
慶長4年6月
6月4日 毛利輝元の養子秀元、徳川家康とは通じていないことを安国寺恵瓊に誓う(『毛利家文書』)。
慶長4年7月
7月 この月、上杉景勝、大坂を発ち、会津へ帰国する。
慶長4年8月
8月 この月、前田利長、大坂を発ち、加賀金沢へ帰国する。
慶長4年9月
9月28日 徳川家康、伏見城より大坂城西ノ丸に移る(『義演准后日記』他)。
慶長4年10月
10月2日 徳川家康、大野治長・土方雄久を常陸へ流罪、浅野長吉を甲斐にて謹慎とする。
10月24日 細川(長岡)忠興の父幽斎、謀反の意思がないことを家康に誓う(『松井文庫所蔵文書』)。
慶長4年11月
11月20日 徳川家康、密かに会津の上杉景勝の様子を伝えてきた戸沢政盛に返事を送る(『譜牒余録』)。
11月 この月、細川忠興、徳川家康に謀反の意思がないことを家康に誓う(『綿考輯録』)。
(つづく)
参考図書
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫 2008年
光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫 2018年
水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』東京堂出版 2021年
藤井壤治『徳川家康』(人物叢書)吉川弘文館 2020年
中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年
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