見出し画像

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。

天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にてのぶなが死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、あけみつひではなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、えんこんが語られてきましたが、その後、野望説黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る記事を紹介します。


光秀はあらかじめ謀叛を計画していたのか

ときは今 あめが下知る 五月さつきかな

天正10年5月27日、中国出陣を控えた光秀は京都の愛宕あたごに登り、愛宕神社に参詣しました。愛宕神社は軍神・しょうぐん地蔵をまつっており、光秀は戦勝を祈願したといわれます。翌日、光秀は神社内のとくいんれんもよおしました。のちに「愛宕ひゃくいんと呼ばれる会ですが、そのほっ(最初の第1句)として光秀がんだのが冒頭の「ときは今~」です。

画像1

普通に読めば、「今はまさに梅雨の盛りの五月だなあ」という何ということはない句ですが、古来、この句に光秀は別の意味を隠していたといわれてきました。すなわち「とき」は明智氏の本流である、「あめが下しる」は「天が下る」で、「今はまさに土岐が天下を治める五月であることよ」という意味だというのです。だとすれば、光秀はこの時点で謀叛の決意を固めていたことになりますが、一方で、その日に光秀は山陰方面に、中国へ出陣することを知らせる書状を送っていました。これは何を意味するのでしょうか。

警戒心がまるでなかった信長

「愛宕百韻」の翌日にあたる5月29日、信長はわずか30人ほどのしょう衆を連れて、近江おうみ(現、滋賀県)のづちを出発し上洛、16時頃には宿所の本能寺に入ります。中国でもう氏とたいするしばひでよしの要請にこたえ、出馬するためでした。

03本能寺址
本能寺址の説明板

信長の身を護る親衛隊というべきうままわりは、信長に先発して京都に入った息子ののぶただに随行しており、京都市中の各所に分散して宿泊します。つまり信長の宿所・本能寺や信忠の宿所・みょうかくの護衛の人数は少なく、ある意味、ノーガードで信長は京都にいました。警戒心の欠如は、自分を襲う者などいないという信長の自信のあらわれだったのでしょうか。光秀にすれば、願ってもない状況が整っていたことになります。

日食と暦、そして光秀は京へ

6月1日、日食が起きました。信長は本能寺で、公家衆や僧侶らに持参した名物茶器をろうしていましたが、日食が起こると、朝廷が用いているせんみょうれきでは日食が予測できていないことを指摘。当時、日食は不吉な光であるとして、天皇に当たらぬよう御所をこもで包む風習がありましたが、その日は間に合わなかったのです。信長は帝に対して恐れ多いと、日食を予測できる東海地方のしまごよみに改めるよう告げました。しかし暦の管理は朝廷の専権事項であり、それを平然とくつがえそうとする信長に公家らは顔色を失います。

画像3
日食

その日の夕方、光秀はたんかめやま城(現、京都府)を発します。信長に先発して、中国地方に向かう光秀の軍勢は一説に13,000。山陰道をおいさかへと進み、くつかけで小休止。道を右に行けば山崎を経てせっ(現、大阪府)、左に行けば京都です。西国に向かうのであればもちろん右ですが、光秀は馬首を左に向け、京都に入るよう命じました。本能寺の変の始まりです。光秀はなぜ、信長を討つ決断を下したのか。その動機とは何であったのか。和樂webの記事「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!」をお読みください。

謀叛に踏み切らせたものとは

さて、記事はいかがだったでしょうか。光秀は本能寺の変の当日、もしくは翌日に書いた書状に「信長父子のあくぎゃくは天下のさまたげ、討ち果たしそうろうと記しています。信長とその後継者信忠に対し、何か強いいきどおを感じていたのでしょう。もちろん、自分の行いを正当化するための後付けの文言ともとれますが、もし野望で信長を討ったとするならば、その後、もう少し次々と手を打ったのではと私は感じます。信長を討ったことで、すでに目的を果たしたような印象すら受けてしまうのです。

画像4
明智の水色桔梗の旗印

本能寺の変後、組下大名であるほそかわふじたかつつじゅんけいらが味方にならなかったのも大きな誤算でしょう。逆にいえば、そうした根回しもできないうちに、突発的に本能寺の変を起こしたともいえそうです。果たして光秀を謀叛に踏み切らせたものは何であったのか。皆さんはどうお考えになるでしょうか。

なお和樂web掲載中の記事は本日までにほとんど紹介しましたが、またさまざまなかたちで歴史にまつわる記事をnoteにアップできればと考えていますので、よろしくお願いいたします。

お読み頂き、ありがとうございました。

いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。