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戦国note

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戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

有岡城(伊丹城)~黒田官兵衛虜囚の地

 兵庫県伊丹市にある有岡城(伊丹城)跡は、もともと摂津の国人・伊丹氏の城でした。天正2(1574)年、織田信長に仕えた武将・荒木村重が伊丹城を奪取し、名を有岡城と改めました。 史上有名な「有岡城の戦い」 村重は有岡城を居城とし、堅固な城郭へと改修します。しかし天正6(1578)年に村重は突如として信長を裏切りました。  村重の謀叛に対し、黒田官兵衛が説得するため有岡城に向かいましたが、捕らえられ幽閉されました。  村重は有岡城に籠城して抵抗します。翌年に村重は有岡城を脱

日本一新しい天守閣を持つお城🏯「尼崎城」をご紹介!

今回は、日本一新しい、ほぼ新築な感じのお城🏯、「尼崎城」をご紹介致します✨ 驚くなかれ、こちらのお城、一般公開が2019年3月ということで、チケット販売窓口の係員さん曰く、「日本で一番新しいお城」だそうです! もちろん、昭和時代にありがちな、勝手に築城系資料館の鉄筋コンクリート造の類いではなく、本当に明治時代の廃城令までそこに本物のお城があった系の再建されたお城です! しかも、誕生までの秘話がなかなか珍しい?全国でもこのようなケースから再建された例はないのではないでしょ

熊本城「宇土櫓素屋根特別公開」訪問記

 2016年の熊本地震によって大きな被害を受けた熊本城。いまだに震災の傷跡が残りますが、少しずつ復旧が進められています。 復旧が済んだ建物 天守は2021年にいち早く復旧し、復興のシンボルとなりました。  倒壊した長塀も2021年に復旧し、重要文化財の復旧第1号となりました。  監物櫓は、2023年12月に復旧が完了しました。(こちらの記事で紹介済) 復興への道は半ば 現在の熊本城に入ると、本丸まで空中回廊を歩くことになります。  数寄屋丸二階御広間(すきやまるにか

ポツンと一軒家 城郭編

 各地の城を回っていると、あることに気づきます。城址公園となっている箇所以外にも、「○○城△△門跡」といった石碑や案内板などが、市街地の中に立っていたりします。  城(特に大規模化した近世城郭)は、たいてい現状よりもずっと広い範囲に構造物がつくられていました。多くの場合、開発によって破壊されていますが、痕跡が残っているケースもあります。これまで、江戸城外堀跡や小田原城惣構跡などを紹介してきました。  また、現在城跡として認知されている場所から離れたところにある「ポツンと一

【書評】金子拓「長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像」(中公新書)

 天正3年(1575)に起きた長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を撃破しました。  教科書に載る「長篠合戦図屏風」には、織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲隊の活躍が描かれています。いわゆる「三段撃ち」が後世の創作ということは一般にも知られてきましたが、「織田信長が鉄砲を活用した戦い」という認識が普通でしょう。  昨年発行されたばかりの本書は、これまでの長篠合戦の研究をコンパクトにまとめ、現時点での学術的な「長篠合戦像」を提示した一冊です。  三段撃ちの虚飾以

臼井城~上杉謙信を撃退した名城

 臼井城は、千葉県佐倉市にある城跡です。現在は城址公園があるものの、知名度はまだ高くありません。しかし、太田道灌や上杉謙信といった名将の攻撃を受けた重要な城でもあります。 太田道灌との戦い 臼井城は、当地の豪族臼井氏の居城として築かれました。文明11年(1479)には、太田道灌の攻撃によって落城。この際に道灌の甥である太田図書助(ずしょのすけ)が討ち死にしたとされます。  現在、太田図書の墓が城址公園の西の方に残されています。 上杉謙信との戦い その後、臼井氏は没落して城

本佐倉城~千葉氏の本拠となった土の要塞

 本佐倉城は、千葉県佐倉市と酒々井町にまたがる城跡です。近くにある佐倉城とは別物です。 本佐倉城の来歴 本佐倉城は佐倉城よりも前の時代、下総の豪族・千葉氏の居城として築かれました。千葉氏は戦国時代に北条氏の傘下に入りましたが、小田原征伐後に豊臣秀吉に所領を没収され、没落します。江戸時代初期に佐倉城が築かれると、その役割を終えました。  本佐倉城は国指定の史跡であり、続日本100名城に指定されています。  現在史跡公園として整備されているのは、上の図の「セッテイ山」~「城

彦根城「佐和口多聞櫓」の特別公開

 滋賀県彦根市にある彦根城は、国宝5天守の一つに加え、5件の重要文化財を擁する名城です。  2024年2月から3月にかけて、補修工事のため天守が入場不可となりました。その代わり、普段非公開の「佐和口多聞櫓」が7年ぶりに公開されました。  彦根城といえば天守に注目が集まりますが、現存櫓も貴重な文化財です。今回は、佐和口多聞櫓をふくむ4件の櫓とその内部を紹介していきます。  上記の地図の13番「佐和口多聞櫓」、4番「天秤櫓」、3番「太鼓門櫓」、2番「西の丸三重櫓」の順に紹介し

二条城~江戸幕府の誕生と終焉を見届けた城

 京都の人気観光地の一つである二条城は、歴史上も重要な役割を果たした城です。 武家政権の長が城を構えた二条 現在の二条城ができる前にも、二条には城郭ないし武家屋敷といえる建築がありました。足利義輝の邸宅は二条古城、織田信長の京での宿所は二条新御所、豊臣秀吉の邸宅は妙顕寺城と、それぞれ別名を持ちます。二条新御所は、本能寺の変の際に織田信忠が討ち死にした場所です。  上記は、いずれも今の二条城から少しずれた場所にあり、現在は石碑が残るのみです。  現在の二条城を築いたのは、関

松戸市・流山市の隠れた名城~根木内城・小金城・前ケ崎城

 千葉県松戸市・流山市といえば東京近郊のベッドタウンです。そんなところに城跡があるとは、思いもよらないでしょう。  しかし、「城跡は日本全国どこにでもある」と言っても過言ではありません。今回は、交通の便利な住宅地の中に保存されている三つの城跡を紹介します。いずれも、下総の国衆・高城氏が築いた城です。 根木内城(ねぎうちじょう) 常磐線北小金駅から南東へ徒歩15分ほどで、根木内城址公園につきます。戦国時代に高城氏の居城でしたが、天文6(1537)年に小金城に本拠地を移しまし

史上初!姫路城「西小天守特別公開」

 言わずと知れた世界遺産・姫路城。白亜の国宝天守はあまりに有名です。  姫路城の天守は、複数の建物が連なった「連立式天守」という形式です。ひときわ目立つ「大天守」の周りに、三つの小さな天守が付属しています。西小天守、東小天守、乾小天守です。  天守の建物群のうち、大天守はいつでも入場可能、東小天守や乾小天守は定期的に特別公開されていました。しかし、西小天守はこれまで公開されたことがありませんでした。  2024年2月、世界遺産登録30周年を記念し、西小天守が初めて公開さ

箕輪城~武田信玄を苦戦させた関東の名城

 箕輪城は、群馬県高崎市にある城で、日本百名城に選定されています。上野(こうずけ)国の中央部にあり、戦国時代には北条氏や武田氏、上杉氏がしのぎを削りました。 箕輪城を築いた長野氏 永正9(1512)年、上野の豪族である長野業尚が箕輪城を築きました。長野業正の代には武田信玄の侵攻を何度も受けますが、撃退しています。信玄は強敵であった業正の死後、ようやく箕輪城を攻略しました。  豊臣秀吉による天下統一後、徳川家康が関東に入ります。この時に箕輪城を与えられたのが井伊直政ですが、

高取城~山中に眠る天険の要害

 奈良県で唯一「日本100名城」に選定されている高取城は、高市郡高取町にあります。標高583メートル、比高(麓からの高さ)約350メートルという堂々たる規模の山城です。 高取城の歩み 城が築かれたのは南北朝時代の頃ですが、総石垣の近世城郭となったのは豊臣秀吉の時代です。天正13(1585)年、秀吉の弟・秀長に仕えた本多利久が高取城の改修を命じられました。  17世紀後半には植村氏が旗本から大名に取り立てられ、幕末まで高取城主となりました。植村氏の当主は代々「家」の字がつい