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【関ヶ原合戦 コラム】石田三成襲撃事件

2021年4月から趣味で「関ヶ原合戦」に関する書籍や記事を読んでいます。関ヶ原合戦やその周辺の事件については諸説あり、私も一読者として楽しみながら、自分なりに解釈をしながら、合戦の真の姿を想像しています。

そのような中、この記事は様々な書籍等を参考にしながら、私自身のノート代わりにまとめています。私はあくまで関ヶ原合戦「愛好家」なので、内容の是非はあるかもしれませんが、ご容赦のほどを。

今回は、慶長4年閏3月の石田三成襲撃事件についてまとめました。

(この事件が起こった慶長4年の年表はこちら)

七将の決起

慶長4年(1599年)閏3月3日に前田利家が、大坂で亡くなります。

この頃までに加藤清正・浅野幸長・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興の七人の大名、いわゆる七将が、石田三成ら奉行衆への制裁を企てていました。

七将がどの大名を指すのかについては諸説ありますが、笠谷和比古氏は、閏3月5日に徳川家康が書状(「譜牒余録」)を宛てた7名としています(笠谷, 2008)。しかし、『義演准后日記』には「大名十人」と記述されており、上記の大名の他にも黒田如水・浅井長政の動きも見られることから、必ずしも7人のみが決起したわけではないのでしょう。ただ、家康が事件の首謀者を7名と認識していたことはうかがえます。

事件の発端は、慶長の役(朝鮮出兵)から戻った軍監の福原長堯が石田三成を通じて、諸隊が追撃を中止し、戦線を縮小したことを豊臣秀吉に報告したことにありました(笠谷, 2008)。これにより、蜂須賀家政・黒田長政・藤堂高虎・加藤清正・早川長政・竹中重隆らは叱責を受け、早川長政・竹中重隆らに至っては領地を没収され、福原長堯への恩賞とされました。この件に直接関係のない福島正則や細川忠興も同調したのでした(水野, 2016)。

身の危険を察知した石田三成は閏3月4日に大坂を脱出し、伏見城内の自身の屋敷に立て籠もりました。笠谷氏は、三成が伏見にて入ったのは(ドラマ・小説等でおなじみの)徳川屋敷ではなく、伏見城内の三成自身の屋敷であったと指摘しています(笠谷, 2008)。三成が機転をきかせて家康に保護を求めたというのは後世の創作です。

この時、石田三成同様、増田長盛・前田玄以も伏見城内に立て籠っています(『多聞院日記』)。光成準治氏は、叔父の毛利元康に宛てた毛利輝元の書状(「厚狭毛利家文書」)における記述から、三成だけでなく豊臣政権の政策・処分に関わる長盛・玄以も制裁の対象であったと指摘しています(光成, 2018)。

閏3月5日になり、徳川家康は七将に対して石田三成が伏見に来ていることを伝え、対応策について具体的な指示を出しています(「譜牒余録」)。つまり、今回の事件の黒幕が家康であることが明らかになります(水野, 2016)。ちなみに、白峰旬氏は「三成は大坂で諸大名とトラブルがあったために、伏見へ移ったわけではなかった(三成は、敵対する諸大名を避けるために、大坂から伏見へ逃げてきたわけではない)」とし、この書状の内容と三成の関連は不明としています(白峰, 2019)。しかし、時系列的にも『言経卿記』の記述(三成が4日に大坂から伏見へ移った)等と連動していると考えるのが自然だと思います。

七将は、徳川家康が自分たちの要求(石田三成らへの制裁)を叶えてくれると期待しており、今回の事件において常に家康の同意を仰ぎ、あくまで家康に容認された範囲内において行動していました(水野, 2016)。興味深いのは、家康と七将らの間の主従関係がどのように構築されていったかを窺い知ることができる点です。しかし、家康は三成らへの制裁には同意せず、いったん保留と回答しました。

三成の反撃計画

加藤清正・浅野幸長らは手勢を率いて石田三成の後を追いかけたものの、なす術を失いました。三成はこれを機に、毛利輝元へ尼崎方面に陣を敷き、対抗するよう要請しました(「厚狭毛利家文書」)。その頃、大坂は徳川家康方の拠点と化しており、これと対抗するためです。つまり、三成はこの時点ですでに、七将の背後にある家康の存在を認識しており、反撃に向けて輝元らと闘争計画を企てていたのです(光成, 2018)。三成はただ七将に屈したのではなく、反撃の機会をうかがっていたのです。

毛利輝元は、安国寺恵瓊・大谷吉継らと対応について協議しました。この闘争計画には、1年後に関ヶ原合戦を主導する大谷吉継・安国寺恵瓊らも関与していたのです。尚、この時、吉継は輝元にくれぐれも家康と対峙しないよう忠告しています。

ちょうどその頃、毛利輝元の要請を受けた吉川広家が、軍を率いて上方方面を目指していました(「祖式家旧蔵文書」)。毛利家は家康や七将に対して臨戦態勢をしいており、上方は一触即発の状態だったのです。

こうした中、安国寺恵瓊が毛利輝元を説得し、徳川家康へ和議斡旋を要請することになりました。また、長束正家も石田三成を説得し、事件解決のために家康に謝罪するよう促しています(『看羊録』)。三成・増田長盛も、五大老である輝元と上杉景勝に裁定を委ねることにしました。これを受けて輝元は景勝と協議し、家康との和議を進めました。事態を見かねた豊臣秀吉の正室・北政所も事件解決に向けて介入をしています。

事件の顛末

閏3月9日になり、石田三成の処分が決定し、佐和山へ隠退することになりました。しかし、増田長盛は徳川家康の意向により失脚を免れています。これについて石畑匡基氏は、これまでに両者の関係が接近していた(『言経卿記』)ことが起因しているのではと指摘しています(石畑, 2014)。三成1人が責任を負う結果となったのです。三成の子・重家は、家康の計らいで大坂にて豊臣秀頼に奉公することとなり、前日の8日には、そのお礼に家康のもとを訪問しています(『浅野家文書』他)。以後三成は、石田家を存続させるよう取り計らってくれた家康に対し、協力的な姿勢を示していくことになります。これ以後の家康暗殺計画事件において、三成は自邸を家康に宿所として提供したり、嫌疑のかかった前田家への迎撃態勢として三成の軍勢を派遣しています(水野, 2016)。一方で輝元との関係も、失脚後も恵瓊を通じて続いていくことになります(光成, 2018)。

翌日の閏3月10日に石田三成は、予定通り伏見を出発し、近江国佐和山へ向かいました。徳川家康は子の結城秀康に佐和山からの軍勢が待つ瀬田まで警固をさせました。

閏3月13日、徳川家康は混乱に乗じて伏見城西ノ丸に移っています。世間は早くも家康が「天下殿」になったと評しました(『多聞院日記』)。これについては、黒田長政が尽力し、また、これまで反徳川勢力であった毛利輝元や三奉行、大谷吉継らの斡旋があったようです。白峰氏は、家康が「天下殿」になったと評した『多聞院日記』は、家康が入ったのは伏見城の西ノ丸ではなく本丸と誤認していたため、実際は天下殿にはなっていないと指摘しています(白峰, 2019)。しかし、本丸に入城しなければ「天下殿」にはならないのかは疑問です。そもそも「天下殿」という評価は一連の政争をふまえての民衆の評価ではないのでしょうか。

閏3月19日には、家康ら五大老は、蜂須賀家政・黒田長政に対して蔚山籠城後の行動に落度がなかったことを認め、早川長政らの処分も撤回されました(『毛利家文書』)。一方の福原長堯らは私曲により所領を没収されることになります。

閏3月21日に徳川家康と毛利輝元は互いに起請文を交わします(『毛利家文書』)。その中で家康は両者の関係を「兄弟」、輝元は家康を「親」と表現し、2人の上下関係を明確に示す結果となりました。輝元は事実上、家康に屈服する形となりました。

石田三成襲撃事件とは

この事件において最も影響を受けたのは、(石田三成はともかく)毛利輝元でしょう。光成氏の著書をぜひご一読いただきたいですが、毛利家の取次であった蜂須賀家政・黒田如水、朝鮮出征時に毛利家と苦楽を共にした加藤清正がそれぞれ家康へ接近していたことを知り、衝撃を受けています(光成, 2018、年月日欠毛利輝元書状)。また、光成氏は、七将の背後には利家死去の政局を好機ととらえた黒田如水の関与を指摘しています(光成, 2018)。先述の『義演准后日記』の「大名十人」という記述もあながち誤解ではないようです。

しかし、一方で上杉景勝とは事件解決に向けて協力する中で信頼関係を強くしています(光成, 2018)。

最期になりますが、水野伍貴氏は「石田三成襲撃事件」について、『慶長年中卜斎記』『義演准后日記』『北野社家日記』「1599年度日本年報」の記述から、暗殺計画(私戦)という様相の「襲撃事件」ではなく、あくまで制裁(切腹)を迫ったというのが実情であると指摘しています(水野, 2016)。公儀に裁定を委ねたというのが実情のようです。

ただし、清正・幸長らは手勢を率いていることを考えると、制裁を目的とした「襲撃事件」と考えるのが妥当でしょうか。

参考図書

笠谷和比古 『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』 講談社学術文庫 2008年

石畑匡基 「増田長盛と豊臣の「公儀」-秀吉死後の権力闘争-」谷口央(編) 『関ヶ原合戦の深層』高志書院 2014年

水野伍貴 『秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜』 日本史史料研究会 2016年

光成準治 『関ヶ原前夜【西軍大名達の戦い】』 角川ソフィア文庫 2018年

白峰旬 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』 平凡社 2019年

水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』東京堂出版 2021年


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