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【戦国】徳川家康(1543年~1616年)

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

 徳川家康の気性をよく表しているといわれていますが、実際の家康は三河出身の気性の荒い、激烈な人物であったといいます。家康は三河の国人松平氏の出身で、今川氏や織田氏に挟まれ、幼少期を今川氏や織田氏の人質として過ごします。1560年、今川義元が桶狭間で討たれると、織田信長と同盟を結び、運が開いていきます。

 信長亡き後は、豊臣秀吉が天下人となり、五大老筆頭となるものの、住み慣れた三河国から関東への転封を余儀なくされます。当時の江戸(東京)は、武蔵野台地が広がる湿地帯で、ペンペン草が生い茂る未開の地でした。

 それでもジッと機が熟するのを待った、家康は1615年、大坂夏の陣で豊臣方を滅ぼし、名実ともに、徳川政権は不動のものとなり、家康はようやく天下人になりました。ここに、家康が、「我慢の男」いわれるゆえんがあります。

 しかし、若かりし家康は、功に焦り、家臣の意見を聞かず、結果的に味方を多数死なせてしまう出来事がありました。「三方ヶ原の戦い」です。

 1573年、30歳の家康は、信長と同盟を組んでおり、戦国最強の武将武田信玄と対峙していました。浜松城から打って出た家康でしたが、武田軍は徳川軍の動きを読んでおり、徳川軍は2000人以上の死傷者を出し、壊滅的打撃を受けました。家康は、徳川軍の各隊が次々に壊滅する中、命からがら浜松城に逃げ帰りました。この時、あまりの恐怖に馬上で脱糞したといわれています。

 その後、家康は全ての城門を開いて、かがり火を焚き、兵をみな城に収容します。これは孫子の兵法で「空城(からじろ)の計略」といいます。相手に警戒心を与えて、攻撃を躊躇させるやり方です。これにより武田軍は引き上げました。

 家康は、家臣を動揺させないために、平然と茶漬けを食べて、そのまま寝てしまったといいますが、内心は心臓が飛び出るほどドキドキしていました。この時絵師に書かせたの肖像画があります。上の肖像画です。いらだっているのか、あぐらをかき、顔にはいまだ恐怖の色が見えます。

 自らの失敗のために多くの家臣を死なせてしまった悔しさと、不甲斐ない自分に対する苛立ち、計り知れない敵に対する恐怖がこの肖像画からは伝わってきます。家康は生涯この肖像画を壁にかけ続けたと言います。この時の悔しさを決して忘れず、自分への戒めとしたのです。これ以降、家康は全ての戦に勝利します。我慢の男の本当の意味での誕生でした。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。