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万人ウケを諦めたら垢抜けた話

学生時代、『モテ』を意識して髪を伸ばし、いわゆるセミロングを維持していた時期がある。猫毛×テンパ×茶髪の私は、髪が伸びると広がり、絡まり、、モテの理想からは遠くひどく落ち込んだ。アイロンやコテ、ついにはストレートパーマをかけてみるも、挫折。雑誌でキラキラしている艶髪でボブよりも長い髪の女の子たちが羨ましかった。

『女らしくないといけない』

という見えない呪縛が自分にかかっていたのだと思う。
そして、女らしさ、というイメージが私の中ですごく偏っていたのだと思う。バイトもしていないような学生の頃は母と買い物に出かけていたのだが、自分の好みに加えて母好みのコンサバ要素が含まれている洋服ばかりを見ていたがする。人の好みや世間一般的に推奨されている、ある種出来上がた系統の中に自分を押し込みに行っていた。

雑誌に載っているようなファッションもいまいち当てはまらなければ、母の好みのコンサバ女子にもちょっと反発したい。私はどこに向かっていけばいいのだろうと方向性に悩んだ。

ある冬の日のこと。セミロングの髪と静電気と格闘する私はとうとうしびれを切らして髪を40センチほどバッサリ切った。誰からどうみてもショートヘアになった。快感。こんなにも髪の毛って重かったの?と、帰宅後体重計に乗ったのを今でも覚えている。翌日、学校では新しい髪形は高評価。
ファッションも必然的にレースやシフォンや一般的に「モテる」といわれていた服装に違和感を感じ、違う系統の服を着るようになった。
結果、すごく楽になったのだ。なによりも自分自身一番しっくりくるようになった。そうそう、このフィット感。これよ、これ。と。

それからというものの、私は基本的にショートへアでいることが多い。
もちろん多少の冒険もしてきたけれど、やっぱりショートの自分が落ち着くし、自己肯定的に過ごせる。ファッションもメイクも楽しいし、何よりも自分自身が一番イキイキするのだ。

私はだれかが提唱するその人の「好み」に自分を当てはめに行くことを諦めた。そうすることで、その人の「ストライクゾーン」に入れなくなってしまったのかもしれない。でも、それでいいのだ。
限りある人生、他人の掲げるストライクゾーンに自分が入りに行こうとしている時間がもったいない。自分が少しでも肯定的になれる自分で居ることが一番だと思う。きっとその自信がオーラとなって、物質的な外見以外の見えない魅力になって、だれかの瞳にきっと映るはず。おしゃれや身なりはもしかしたらその見えないオーラを強めるためにあるのかもしれない、とさえ思う。

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