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綿帽子 第三十一話

『家を売りに出した』


約束の日までに再度税理士さんに連絡を取ってみたが、良い返事ではない。一度任せてみて、良くなければまた探してくれると言う。

それはきっとその場限りのことなんだろう。
人は弱気な時ほど何かに依存したくはなる。

親父のことを考える。

お袋は露骨に感情を露わにして「困っている時にあれだけ親父に世話になったのに、こちらが困っている時にこれは何だ?」と言っている。

言いたい事は良く分かるよ、俺だってそう思うさ。
経緯を知れば知るほどそう思うさ。

でもこれが現実なんだよお袋、何かを達観しちゃったわけではない。
だけど、諦めなきゃ前に進めないこともある。

それに、俺にどれだけ時間が残されてるか分からないんだよ。

だから前に進むことにしたんだ。

結局提示された金額より、二百万ほど高い価格で家を売りに出した。

不動産屋が外観を含めた各所の写真を撮っていった。
データを持ち帰り次第ホームページに掲載されると言う。
了承して待つことにした。

不動産屋が写真を撮っている間、何故だか無性に泣けてきた。
特に思い入れがあるわけではない、むしろ手放したい気持ちの方が大きい。

しかし、この場所で親父とお袋が俺の居ない数十年間を二人で待ち続けていたと思うと、何とも言えない気持ちが押し寄せてくるのだ。

若い時から家を出ていたから、二十年間ほとんど会話らしい会話はしていない。

病気になって、どうしようもなくなって実家に帰らせてもらった。
自分としては病気が落ち着いたら直ぐにでもまた家を出るつもりだった。

結局相次いで病気が重なり長居することになってしまったのだが、二十年も離れていながら親父と一緒に過ごせたのは七年間だけだった。

親父の汗と涙が染み付いた、この家を手放さなければならない。

亡くなる直前、親父は一時帰宅をした。

何とも言えない安堵の表情を浮かべながら介護用タクシーを降りると、一歩一歩俺の腕に捕まりながら玄関までの道のりを歩いた。

大丈夫かと尋ねれば「大丈夫だ』と言う。

それから親父は食い入るように庭を眺め、家の外観を眺め、お袋が育てた草花にひとしきり目をやると、やがて満足そうな笑みを浮かべた。

俺は家に入ろうと親父に声を掛けた。

いや「もういいかい?」だったのかもしれない。

「ああ、もういい」

親父はそう答えたと思う。

もっともっと好きなだけ親父が満足がするまで眺めさせてやりたかった。

そんなことすらしてやれないのかと悔やんだけれど、とにかく俺は親父にそう言った。

だって、俺はそう言われれば親父が何て言うか知っていたから。

二、三歩歩くと、親父の腕から血が滴り落ちている事に気付く。

親父に着せたお気に入りのジャケットも袖の部分のほとんどが血で染まり、黒ずんでいる。

同時に気付いたお袋が介護タクシーの運転手さんに謝っている。
点滴の針を抜いた後から出血をしているようだった。

出血を見て、急いで親父を家に連れて入る。

そう、俺にはもう解っていた。

今連れて帰ってあげないともう二度と家には帰れないことを。
次に帰って来る時には親父は体が冷たくなったまま家に帰るのだということを。

親父は何とか玄関まで自力で歩くと、そこでもう立てなくなった。
俺は急いで親父を抱きかかえて家に上げると、居間に置いてある介護用ベッドまで運んだ。

少しの間でも家に居させてやりたい。
出来れば今夜一晩、いや、半日でも良い。
親父を家で安心して眠らせてあげたかった。

親父の腕の出血をタオルで拭い、血止め代わりにタオルを巻き付けた。
何度もタオルを変えるが出血が収まらない。

しばらく繰り返しているうちに落ち着いてきた気がしたので、様子を見ることにした。

犬が駆け寄ってきて親父のベッドからはみ出した指を舐めた。

それに親父が気付いたかは定かではないが、犬を近づけるわけにはいかないので叔母に遠ざけるように言った。

嬉しそうに親父にじゃれつこうとしている犬を見て、何だか矛盾しているような気がした。

親父の側にずっと居てやりたかったが、少しでも家の中に居ると気づかせてあげたくてその場を離れることにした。

親父はしばらく天井を眺めたり、周りをマジマジと見続けていたが、やがて目を閉じた。

その後は以前話した通りである。
いたたまれなくなった俺はしばらく二階に上がっていたが、やはり気になって階下に降りた。

ベッド脇に血溜まりができていた。

慌てて親父を病院に緊急搬送した。

親父がこの世から消えてしまったのはそれから三日後だ。

たった数時間の外泊許可の日だった。

俺はその時の親父の顔が忘れられない。

全てを目に焼き付けておこう、ここは俺の家だ。
俺が一番落ち着ける場所なんだ、やっと帰って来れた。
ここが俺が安心できる場所なんだ、絶対に忘れたくない。
ああ、やっと帰って来れたんだ、もうあそこには戻りたくない。

親父の目が全てを語っていた。

その家を亡くなってからたったの7年で手放さなくてはならないのか。

「生きている間も親不孝、お前死んでからもまだ続けるのか」

「お前、しっかりしろよ」

親父の遺影が、そう語っていた。


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