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寒波の日、鎌倉で


2023.1.29

空気が肌に刺さるように冷たい。関野君と九時半に鎌倉駅に集合して、今年の冬におこなう展示のギャラリー見学。二階堂、小町、材木座と四軒をまわった。荏柄天神社では紅白の梅が咲き始めていた。アマザケスタンドで一杯飲んだ。あっというまにぽかぽかしてくるからすごい。道中、気になった古いアパートの奥の一室がブックストアになっているのをみつけた。株式会社「夏への扉」、今小路ブックストア、とある。父の故郷青梅の駅近にある喫茶店とおなじ名前。もしかしてこのお店も。気になって入ってみる。やっぱりハインラインのSF小説「夏への扉」からとった名前だそうだ。休日だけ開店しているらしい。本のラインナップがとってもすばらしくて、積読がすごくあるのにさらに六冊も買ってしまった。森まゆみさんの下町谷中エッセイとか、澤田瞳子さんの京都エッセイ、井伏鱒二「荻窪風土記」など、自分が今までに近くに住んだり関わったりしてきた土地について書かれているものはどうしても読みたい。ひとたびページをひらけば一気に空間的、時間的な制限をのりこえてあの場所、あの時間にいけてしまう、からだはここにいるのに。佐野洋子さんのちょっと変わったエッセイ「食べちゃいたい」も即買い。寺山修司についてかなりくわしくまとめられた本などは、しばらく思い出すことのなかったとある人、私に初めて寺山を教えてくれた、私より四半世紀長く生きているその人のことを思い出して買わずにいられなかった。どんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないだろう、という寺山のことばをその人はとても大事にしていた。もう会うこともなくなって十年が経つ。

見学させてもらったギャラリー。団地みたいなアパートの一室


昼は久しぶりの香菜軒寓さんへ。ジブリ映画に出てきそうなてづくりストーブと美味しい野菜ごはん定食で芯から温まる。ポテサラとおから和えがとくにおいしかった。ひと皿のなかに甘い、酸っぱい、ちょっと辛い、ほのかな苦味、そしていい塩梅の塩っぱさ、などが集合していて豊かな気分になる。てづくりストーブで温めたお湯に柑橘の皮をひとつまみ浮かべたのみものがとてもおいしかった。うちでも真似しよう。

気になるギャラリーをじっくり回れたのはもちろんよかったけど、オーナーさんたちとの話がいちばん面白かったかもしれない。鎌倉で生まれ、育った人。きっと親やその前の代から引き継いだであろう立派な敷地のなかで、古い家を守ったり、リフォームしてあらたな命を吹き込んだりして、今も暮らしつづける人。たまたま人生の一時期を過ごしにやってきた鎌倉で、そこにそうして根を張り続けている人や、もっとずっと前からここに流れていたすべての時間に思いもよらずふと巡りあうとき、ほんとうに果てしない気持ちになる。私のからだはとうてい世界の果てまでこんな速度でいかれはしないのに、この心にあわられる思いというのはそれをいとも簡単にできてしまう。

人と土地の関係。土地の記憶。時間は流れるのに土地はその土地でずっとあること。人のことを知るとき、誕生日とその人が関わりのあった土地はすごく重要な情報だと思う。生まれた日の数字と、そのひとがどこで生まれ、どこで育ち、今どこに暮らしているかを知るだけで、それ以外のことは何も知らなくても、なにひとつ知らないからこそ、あらゆる空白が想像力によってただちに自動的に補完されていく気持ちになる。もちろん正しいかそうでないかなんてどうでもよくて、ただただ想像する。いろんな人生があった、今もあって、これからもあるだろう、そういうひとときの想像にどうしてこんなにも癒やされるんだろう。

香菜軒寓さんのてづくりストーブ

去年知ってファンになってしまった鎌倉倶楽部茶寮小町さんで一杯お茶をいただいて、展示のことについてあれこれ相談し、解散。そういえば十年にいちどの大寒波というのが数日前からきているらしく、よくわからないけどたしかに夜は去年よりずっとさむいかもしれない。でも、じっさいのところはよくわからない。十年にいちどの大寒波も、かつてのペストやスペイン風邪の世界的流行などと比較されるような今回のパンデミックも、たしかにそれは今この世界でじっさいに起こっていることで、ふだんの日常からはかけ離れたように思えるとてもめずらしいことで、記録的ですごくたいへんなことなんだと思うけど、そうなったとき日常はじゃあ姿を消してしまうのかというとそうではない。日常はあくまでどこまでも日常として、世界を保つ力としての役割を担っている、そういう感覚をわすれたくないと思う。

以前先輩の役者さんが戦時中の映画にでたときに、赤紙がとどいていよいよ出征する日の朝、家族との別れのシーンで涙がぼろぼろ出て大泣きの演技になってしまったところ、カットがかかった。監督から「この時代の人たちにとって戦争はとくべつなことではなく日常です。戦争のなかにあった日常をちゃんと演じてほしい」と言われたそうだ。つまりそんなに大袈裟に泣いたりしないでほしいという演出である。私はその話を聞いてこれは盲点かもしれないなと思った。

どんなたいへんなことが起こっている中でも、それが命に関わるようなことであっても、じっさい私たちが今回のコロナウイルスで自分ごととして経験したように、世界の中で日常が担っている部分は消えてなくならない。それまでのようすと変わる部分はあるかもしれないけれども、消えることはなく、むしろ継続されようとする、あるいは自動的に持ち越されようとする、更新されつづけようとする力、日常と呼ばれるその力によって世界は完全には壊れない。新しい世界なら、その世界の中であっという間に日常は居場所をみつける。朝が来たらおはようというし、食事もする。トイレに行くし、日記も書く。着替えだってちゃんとするし、人と出会って別れる。私たちはいつもそういう日常の力づよい繰り返しによって命を保っている。そういうことをわすれたくない。

自分ってこんなにがに股なんだ、と思った一枚


※写真はすべて関野くん撮影






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