京都旅はいつも真冬
2023.1.20
京都へ一泊二日の誕生日旅行。去年みたく鎌倉でしずかに過ごすのでいいなと直前まで思っていたのだけれど、昨年末から和泉式部や清少納言の書いたものを読んできてふと、千年も昔の京都で彼らはそうしていたんだよな、書くことに情熱を注いだ人たちのかけらに触れてみたいな、今年は本をつくりたいと思っているし、と思ったのだ。
そうでなくても京都はなぜかとくべつな街で、行けば毎回といっていいほど今生きている理由の深いところにある何かに触れるようなできごとが起こる。運命の分かれ道の、わたしが選ぶほうは京都から始まっている、といってもいいかも。ずっと行きたいと思っていた祖父の分骨先のある西本願寺にもまだお詣りしていないしな、というのもあり、今たった一日でも行こうと決めた。
着いてまずは目当てのごはん屋さんへ。四条高倉のホテルを取ってくれたので、そこからすぐのお店。お腹いっぱいなのに、わたしでも食べられる米粉でできたクレープを売っているお店へ移動。どうしても食べたかった。できたてを頬張りながら鴨川を北上。紫式部の邸宅があった廬山寺へ。人もほぼいなく、うす陽が差し込む源氏庭前でまどろむ。穏やかで、厳かで、静けさに満ちている。寒い季節に来てよかった。ここであの物語を、千年という時を読み継がれる物語をあの人は書いたのだと思うと胸がいっぱいになる。「源氏物語」は、じつは解説や分析を読んだだけで本編をちゃんと読んでいないけれど、三月に宇治の源氏物語ミュージアムの改修工事が終わる頃までにはちゃんと読んで気持ち新たにまた宇治へも行きたい。
廬山寺から南下し、女人往生の寺、誓願寺へ。ここへは和泉式部や清少納言が帰依し、往生した。千年も昔、死や病は今よりはるかずっと人間のコントロール外にあり、有象無象わけのわからないことを当たり前に受け入れながら与えられた短かな命を生きねばならなかった時代、しかも男性によって男性のために作られた社会のなかで女性であるということは今よりもずっとずっと生きづらかったはず。まあ彼らはそれでも恵まれた貴族側ではあって、なにより字を書くことができ、思いを文字に乗せることができたけれど。往生を願ったふたりは、この場所でどんなふうに思いを遂げたのだろう。会ったこともないふたりの背中をすこしだけ見たような気がした。
錦市場の有次へ閉店時間ぎりぎりで到着、二年前に目星をつけていた三徳包丁を誕生日プレゼントに買ってもらう。名入れは「愛」に。これから愛と刻まれた包丁を握っていくんだ。毎日たべるものを、命をつくるものをこれで刻んで。大事にしよう。わたしたちが今日さいごのお客さんだった。
行くつもりではなかったお店がすぐ近くだったので夕食にと寄ってみると、幕末の志士、古高俊太郎の元家だった場所がお店になっているという。新しい日本のあり方を夢見ていた古高は新撰組に捕まってひどい拷問を受け、それが池田屋事件の発端となり無念の死をとげた。京都は単純にすごい、平安から幕末以後まで、なんでもかんでも時代の濃い部分がここにあって、どれだけの人間が無念のうちに命を絶やしたか、人と人の色々のこと、時代のうねりのものすごい瞬間、あれもこれもどれもこの土地は知っていて、すごい土地だなとあらためて思う。そのうえに今の人々の暮らしがあること、時は流れても空間は流れずにここに変わらずあることのすさまじさ。
意外とミーハーなパートナーが池田屋跡と近江屋跡をみたいというので、散歩がてら見て、ホテルへ帰る。三万歩弱も歩き、そうとう疲れたので入浴剤でも買ってきたかったなと思っていると部屋に置いてあった。ひのき、ラベンダー、柚皮など天然素材のみでできたもので香りが抜群によく、意識がふわっと飛びそうにすらなる。湯船は細長ではなくまるいジャグジー風呂みたいな形で、たっぷりくつろぎながら入り、寝る。三十三歳さいごの一日も、それ以外の三百六十四日とおなじようにつつがなく手放せたことに感謝。
2023.1.21
誕生日。窓を開けると小さく雪が舞っている。ホテル近くのお粥屋さんで雑穀粥を食べる。どうやらわたしたちが一番客のようで、あとから通勤前らしき人と旅行者らしき人たちでみるみる一杯になった。バスと電車の一日券を購入し、まずは東寺の初弘法へ。弘法大師空海の月命日が二十一日ということで、毎月ひらかれている市の新年最初の日。駅を降り、多くのひとびとが足早に東寺を目指すのに混じる。曇り予報だったのにどんどん晴れていく。生まれたのはしんしんと降る雪の中だったけれど、誕生日に天気がわるかったことがない。ご先祖さまのおかげなんだと、空にむかってお礼をいう。市は、さまざまな露店が立ち並び賑やかでたのしい。京らしくちりめん山椒や京野菜の漬物、あと干し柿や豆、パン、調味料の店などなんでもある。
ぐるっとひと巡りし、次なる目的地の西本願寺へ。ここに亡くなったおじいちゃんもいる。会津のお墓にも行くからね、今年こそ。たまたま土曜の法話が始まる時間だったので、聞くことに。今年は親鸞誕生850年とのことで、誕生についての話。親鸞とかのえらい人は誕生じゃなくご降誕っていうこと、誕生の誕はごんべんに延びると書くから、言葉をのばすと嘘になるという話など。お寺や神社をたずねるのは好きなんだけれど、さまざまの宗派のそれぞれの教えによって救われてきた人たちがほんとうに沢山いるのだろうからそれはすばらしいことなんだろうけれど、決まって開祖とかって男の人だ。そういう人たちがえらい人ってことになっていて、なんの宗教ももたないじぶんからすると、びっくりするくらい今も持ち上げられ、崇められているように感じる時がある。どこもかしこも漂う男くささに一瞬、ふっとうんざりしちゃうことがある。
そういえば道中、目を見張るほどきれいな毛並みの黒野良猫をみかけた。黒猫はわたしにとってラッキーパーソンみたいな存在なので、うれしい。
お昼は三条のほうへ行って食べ、行きたかった永観堂へ。寒寒、広々とした境内をあちらこちらへ回る。足が氷のうえを歩いているように冷たい。いちばん高いところから見渡す京の街がうつくしかった。千年経てども、きっとなにも変わっていないんだろう。一乗寺のけいぶん社を目指していると、辺りに会津藩士の墓地があると知り、寄ってみる。会津は三十四年前の今日、わたしがこの世で生を受けた場所だ。観光客もほぼいない、ひっそりとした小高い丘の上に立つその墓地は、足を踏み入れるだけで涙がでた。来たくもなかっただろうに、幕府の命でふるさとを遠く離れ、治安の乱れまくっていた幕末の京へ警備のためにやってきて、ふたたびふるさとの地を踏むことなくこの地で短くしてついえた命たち。それから少しあとに、その会津でわたしは生まれました、死ぬまで生きます、心いっぱいそうします、どうか安らかにと祈った。その場所を離れがたかった。
墓地をあとにし、寒さと疲れで北欧風のカフェに入る。メニューがスイーツ二種とドリンクのセットの一種類のみだったので、わたしはドリンクのルイボスティーだけを飲み、パートナーがスイーツを全部食べた。チーズケーキとレーズンサンド。ちょっと変わった店で、三人以上で行った場合は全員同じ飲み物を注文してください、と書いてあってなんじゃそりゃと思ったり、入り口からテーブルの上、トイレの中まであらゆる「行動の指示」が注意書きで書かれていて、そんなに客をコントロールしたいならなぜ店をやる?と疑問に思った。
やっと着いたけいぶん社に並んでいる本はどれもほんとうに面白そうでしかないもので、本がみんな生き生きしていて、偏っていなくて、なんでもありで、最高最高!となんども心の中でつぶやいた。本が好きで仕方ない人たちが、本を書かずにはいられない人たちの思いを丁寧に掬い取って、思いごと店に堂々並べている。ここにじぶんの本が並ぶことを想像した。なんて素敵だろう。がんばろう。買うものを絞ってレジへ持っていくと、誕生日だからいいよとパートナーが買ってくれるという。本をじぶんのお金で買わないのはなんとなく罪悪感があるけれど、素直に好意に甘えた。ありがとう。ジーン・リース短編集「あの人たちが本を焼いた日」、若山牧水の紀行文撰「歩く人」、星野道夫さんの「長い旅の途上」など。他にも色々気になったんだけれど。
終電間近の新幹線に乗り、さっき買ってもらった中の、INAさんという方の「つつがない生活」という漫画を読む。セリフもすべて手書き文字で書かれてある。また読み返したくなると思う。心地よい読後感だった。生活漫画、さいこうー。鎌倉へ帰宅、二時に寝る。京都旅行に連れて行ってくれたパートナー、どうもありがとう。三十四歳だか何歳だかもうあんまりわかんないけれど、生まれてきたことがよかったんだかどうなんだかについても常に揺るがない答えみたいなのがあるわけじゃないけれど、そうやってゆれうごく命の中の命を生きていることを、たった一度きりしかないそのことを、できるだけたのしんで真剣にやっていきたい。
2023.1.22
旧暦元日。パートナーがひと月前に急遽ひらくことにした小さな映画祭のため、一緒に入谷に向かう。四季料理かわ乃さんという小料理屋さんを偶然みつけて、鰆と鮭の西京焼き定食を食べる。設営などし、三時から上映開始。会場いっぱいの人が来てくれた。上映後は配給のピザを食べながら監督たちを交えてのトーク。ばたばたしてあっというまに一日が終わった。閉会後はスタッフでちょっとした打ち上げ兼振り返りタイム。あちらやこちらで出会った人たちが繋がって、きっとぜんぜん違うのにどこかで似ている人たちで、でもやっぱりちゃんと違くて、違いがうれしくなるような日。なんだろうな、人は出会う運命にある人に出会うんだな、ただそれだけで、そういうことだけで進んでいくんだな、つつがなく、計画通りにと思う。大袈裟なよろこびも、驚きも、加齢ごとに減っていっている気がするけれど、それでいいんだろうか?と怖くなる日もあるけれど、ぜんぶのピースがもともと揃っているんだなとしずかに分かってしまうことは、きっとわるいことではないと思う。
零時をまわって帰宅し、就寝はまたも二時。昨日、京都にいたんだっけ、ほんとうに?と思うくらい、今日は目まぐるしい時間だった。元日らしいといえばそうかな。でも年を経るごとに、どこにいても変わらなくなっていく感じがあるし、瞬間移動しているんじゃないかとも思う。あったことがほんとうにあったのか、行った場所にほんとうに行ったのか、疑わしくなるくらい時間や空間の感覚がゆがんでいくし、確実に時間が流れていく。このままどこへいって、どうなっていくんだろう。なんにもわからないんだよなあと思う。
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