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星座を作れたらいいのに

2022.1.8

午前中は何をしていたか覚えていない。気持ちがなんだかすっきりしていなかった。午後になって久しぶりに掃除機をかけた。もらいもののハンディタイプの掃除機、ありがたくはあったが、あまりゴミを吸い取らない。最近輪をかけて吸い取らないのでいよいよ不調かなと思う。掃除機の掃除に時間を費やす。

明るい内に散歩に出る。散歩はわたしの一日のメインイベントで、緑内障には歩くといいと言われ、わたしもそのようだと感じているので、毎日続けている。この散歩とその前後に付随する買い出しだとか用事を済ませるだとかをひっくるめると半日は優にかかる。お金のためにどこかに勤めたり、やりたくないことをやるということが昔からできない。アルバイトには数え切れないほど失敗している(そのたび自分はなぜ人が普通にできていることができないのか悩み、今も答えは無い)。だからお金がたまることは今のところないのだけれど、だれかに人生の時間を売り渡し拘束されるという状況がどうしても理解できなくて逃げ出したり苦しみ続けたりするよりは、今のほうがずっとずっといい。29200日。80歳まで生きるとしたときの一生は、たったそれしかない。散歩をじっくりして、この世界に溢れている音と光を感じ、食べ物を買って、それをどうにか料理して、食べて、お風呂に浸かって、体のケアをいくつかして、わたしの一日は終わる。こうやって生きている人がいてもいいと思う、と今日も小さく呟く。

最近寒さが増したので、歩くことがしばらく億劫だった。それでも歩き出すまでが問題で、歩き出してしまえば楽しい。今日は二人で散歩に出た。木漏れ日さす、森のほうへ。日陰ではまだ雪が残っている。ひとりで歩くのと二人で歩くのはまるで違う。同じ歩くでも、その感覚も意味合いもまったく別の行動をしているように違う。ひとりで食べるのと、二人や大勢で食べるのがまるで別物なのと同じ。こうしていると、やっぱり人はひとりなのだと思う。だれかがそばにいるほうが不思議で、非日常のように思う。

図書館に延滞してしまった本を返しにいく。ドラッグストアでマスクを買う。今まで母が大量に仕送りしてくれたものを使っていたので、かなり久しぶりに自分でマスクを買った。いろいろな種類が出ていて驚いた。メガネが曇りにくく息もしやすいという、口の部分が膨らんでいるタイプのものを初めて買った。街でよく見かけるやつだ。帰りは森の別ルートからいく。向こう側からお父さんと小さな女の子が小走りで駆けてくる。すれちがってから、ふと思い振り向くと、向こうも速度をゆるめてこちらを振り向いている。最後に会ったのは十年ほど前かもしれない。この辺りに住んでいることは知っていたので、そのうちばったり会うだろうとは思っていた。そのばったりが今日だった。何もかもが変わったし、何も変わっていないのだと思った。また時間のことを思う。この日にこの道でこの道連れでこうして出くわすことを、生まれて8030日くらいの私は知っていたんだろうか。それでいうと知るはずがないが、今日こうなってしまえば、何もかもが決まっていたことなのだと思う。何もかもが最初からあるような気がするのだ。あの時の先に今日があるのではなく、今日の前にあの時があるのでもない。あの時も今日もこの先のいつかも、すべては常にただ一緒にあるのだと、そう日に日に確信する。


2022.1.9

また午前中にしていたことを思い出せない。昼に牡蠣と大根とからし菜を煮てくずあんにしたものと、ほとんど形が崩れかけて薄茶色の泥のようになってしまったけんちん汁の残り、それと年が明けて初めて炊いたお米を食べる。あと皮ごとすった山芋とろろ。久しぶりのとろろごはん。美味しい。

そのあと数時間、わたしができない仕事について、わたしの現状とこれからの生活と人生について、パートナーと真面目に話し合う。働けない問題児のわたしについて。児じゃないか。お金を稼ぐために生まれてきたんじゃないといつまでも言い続ければおかしな人扱いされる世界に生きる。どう生きるかとどう稼ぐかが同義の世界。生きるが生き抜くと同義の世界。わたしは、生き抜くんじゃなくて、ただ生きたい。それだけだ。沢山鼻を噛んで目を拭いて、ティッシュの雪山ができる。目の中も喉の中もくたびれてしまった。肩も首もがちがちに凝る。植物園を散歩する。ほぼ枯れ木で、残っている葉は数枚という状態のものも多い。ざくろの木が、気になる。葉や実をつけた姿を想像するが、うまくいかない。

休日で混み合う本屋で探していた本を一冊買い、いつものお店で青菜や納豆やおせんべいや焼き芋などの食材を買い、焼き芋を頬張りながら、回転寿司へいく。お寿司はまわっておらず、同じくらいの年齢のお爺さんが三人、同じくらい白い寿司屋っぽい格好をしてカウンターの中に立っている。青い紙に鉛筆で注文を書くところ、素手で握るところ、勘定は皿の枚数を目視で数えるところ、つまり従来の回転寿司のやり方なのがよかった。この前入った回転寿司は注文はパネルで、握るのは人間の手どころかおそらく機械で(ひょっとしたらそのほうがまだいいかもしれない、どんなご時世だろうがビニールの手袋をつけた手でお寿司を握られたらおしまいだ)、勘定は店員が皿の枚数を数えるまでもなく機械の中で済んでいた(皿は皆同じ色だった)。今日のお寿司はネタの下にわさびがこんもり塗られていて何度か鼻をやられた。次からはさび抜きにしてもらおう。

家に帰ってみかんと芋けんぴを食べながら、お正月に放送されたNHK「100de名著 パンデミック論」の回を見る。大学時代にお世話になった小川教授、アナーキズムの研究で面白い本をいくつも書いている栗原康さん(栗原さんの著書を読んで伊藤野枝がますます好きになったし「はたらかないでたらふく食べたい」なんて読む前から好きだった)、何かと話題の斎藤幸平さんの組み合わせで、そこに高橋源一郎さん。それぞれが選んだ本が全部繋がって、小爆発がなんども起こって、とにかくめちゃくちゃ面白かった。骨太な番組。最近また、点と点が少しづつつながり出す。

コロナの苦しみの中、ひょっとしたら明日の朝がこないかもしれないと怯えていた数ヶ月前の永遠より長かったあの十日間が嘘のように今生きてしまっていることに、ここ数日は危機感を覚えていた。コロナは無意識に訴えてきた、気づかせようとしていた。コロナにならなきゃ感じなかった強烈なもの。回復できたとき、やっと時間の檻から出られたとき、やっと外の空気を吸いどこまでも広がる空を見たとき、もう何もしたくないと思ってしまった。こんなに美しい世界が目の前に広がっているのにその世界を味わずに次のページをめくる人生なんて考えられないということをわかった。きらきら光る風景の前で、思うんじゃなくて分かってしまった。散歩と食事で一日は終わる。買って、料理して、食べて、片す、その全てが食事だ。心いっぱい体いっぱいやりつくせば、それだけで、その日は実を結んで終わるのだ。なぜそう生きない?コロナに罹ったこと。なぜかわたしは沢山病や不調を経験すること。なんのために?なぜわたしは人と同じように出来ない。暗く光る星と星を一個一個結んで明るい星座が作れたらどんなにいいだろう。




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