雑記:信長の墓あれこれ

京都府京都市中京区の本能寺は、室町時代には足利氏の保護を受けて洛中の日蓮宗寺院の中でも隆盛を誇り、また戦国時代末期になって織田信長の京都での宿舎として使われるようになり、「本能寺の変」の舞台になった寺院としてあまりにも有名である。

元来は四条西洞院あたりにあり、現在の場所移ったのは天正十九年で豊臣秀吉の命によるものである。

本堂の裏には織田信長の墓と言う大型の宝塔が建っており、これは信長の死後まもなく三子の神戸信孝によって造立されたもので、信孝は本能寺を信長の廟所と定めた。

宝塔自体が信孝によって造立されたものか、それとも移転後に造立されたものかは判然としないが、後述する傍らの宝塔と形式が類似していることからするに、江戸時代前期頃の作と考えられる。

信長の墓の傍らに三基の石塔がまとめられている一角があり、そのうち一番奥に建つ宝塔(二枚目)は薩摩の戦国大名・島津義久夫人の墓で、石塔には元亀三年銘があるが、その前に立つ霊元天皇の女官・菅中納言局の墓とほぼ同型であるから、おそらく島津氏が後代に造立した供養塔と思われる。

画像2

画像3

信長の墓と称される石塔は、他にも全国に何箇所かあり、京都市内にも複数の墓所がある。

このうち大徳寺の総見院は、豊臣秀吉によって定められた信長の菩提寺で、賤ヶ岳の戦いの直前に秀吉が信長の後継者であること世間に印象づけるデモンストレーションとしての大規模な葬儀が催された場所として知られるが、総見院内にある織田家の墓所(下の写真一枚目)内には織田信長の墓(下の写真二枚目)もある。

こちらは五輪塔であるが、やはり本能寺の宝塔同様、信長の死後やや経ってから造立されたものと思われる(江戸時代前期頃であろうか)。

なお、大徳寺総見院は通常は非公開であるが、春秋の特別公開の期間に定期的公開されることが多い(写真は十年以上前の特別公開の際のもの)。

画像8

画像9

上京区の相国寺東方にある阿弥陀寺にも、信長の墓と称される石塔がある。

墓所は本堂裏の墓地内にあり、清玉上人が本能寺の焼け跡から信長の遺灰を、二条御新造より織田信忠の遺灰を拾い集めて供養したものとされ、同寺ではこれを「信長公本廟所」と称している。

なお、脇には森蘭丸兄弟など本能寺の変に際して信長に従って死んだ家臣達の墓(下の写真三枚目)もあるが、寺伝はともかく信長の墓を始め石塔自体はいづれもずっと後代の造立である。

画像4

画像5

画像6

なお、信長を本能寺に討った明智光秀の首塚と称される石塔が、本能寺よりそう遠くない東山区の梅宮社にある(地下鉄東山駅から歩いてすぐ、京阪三条駅からも東方に歩いて十分ほど)。

伝承によると、山崎の合戦の後で光秀の家臣の溝尾庄兵衛が知恩院に首を葬ろうとしたが、たどり着く前に夜が明けたのでやむなくこの地に首を埋めたものとも、江戸時代になって光秀の首を改葬してまつったものとも言う。

いづれにしても伝承の域を出ないし、石塔も五輪塔の火輪を重ねたもので、おそらく光秀の時代よりもやや古い石塔であろうが、社殿には光秀の木像と位牌がまつられて古くから信仰されている。

画像10


#京都 #中京区 #本能寺 #織田信長 #宝塔 #本能寺の変 #島津義久 #大徳寺総見院 #五輪塔 #阿弥陀寺 #信長公本廟所 #梅宮社 #明智光秀 #戦国時代 #石塔 # 歴史 #日本史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?