【ニッポンの世界史】#25 越境する中国史:陳舜臣のユーラシア的想像力
この評伝で紹介されているのは、1970年代の大衆歴史ブームを土壌として、日本を超える視点から、イスラムと中国を繋ぐ立場を果たした作家、陳舜臣(1924〜2008)です。
この陳舜臣という人が、「ニッポンの世界史」の再定義に、どのようなかかわりをもったか、今回はこれをみていくことにしましょう。
中国史の案内人
陳の魅力をひとことでいえば、まるで見てきたかのように中国の歴史を解き明かし、現代世界とのつながりを意識させるところにあります。
本籍は台湾にありましたが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、NHKスペシャル「シルクロード」シリーズを監修。中国各地を旅しながら、歴史小説、史伝、紀行文を多く書き、日本における「中国歴史小説」ジャンルを確立しました。
この時期に中国への関心が集まっていたのは、言うまでもなく、1970年代初頭に日中の国交が回復に向かって動き出していたからですね。
このとき中国の鉄板コンテンツである『三国志』(三国志演義・正史三国志)が再び注目されます。
日本の三国志ブームの歴史は長く、江戸時代にまでさかのぼることができます。その後、明治・大正の間にも、キャラクター造形が磨かれ、それらをベースにする形で、かつて日中戦争下の1930年代にも、吉川英治『三國志』を筆頭とするブームがありました。
三国志研究で知られるアナウンサー箱崎みどりは、吉川ら1930年代の『三国志』ブームの担い手が高まる「中国理解」の機運の中で、東アジアの同胞としての中国と、敵としての中国のはざまで揺れていた様子を指摘しています。
1970年代の三国志ブームも、1930年代と同様、日中関係の変容と対応にせまられて生起したものと考えることができるでしょう。
具体的には、柴田錬三郎(1917〜78)による長編小説『三国志 英雄ここにあり』(1966〜68)、『英雄 生きるべきか死すべきか』(1974〜76)を連載、横山光輝による漫画『三国志』の連載が1971年にはじまります。
ここに陳舜臣も、『三国志演義』に即した柴錬三国志・横山三国志に対し、正史に準拠して新たな三国志像を構築しようとした『秘本三国志』(1974〜77)を放ち、ブームの一角を担いました。
陳の活躍は物語の執筆にとどまりません。
中国への関心が高まるなか、第一線の研究者と積極的に交わりつつ、中国大陸を実際に自分の足で歩き、平易な文体で中国史の通史まで書いてみせました。
陳舜臣は、やはり国内外を自らの足で歩き、その風土を紀行文にしたためていくことになる司馬遼太郎とともに、現在よりもはるかに多くの一般読者を、「物語」を入り口に歴史に誘い込んでいったのです。
日中の比較文明論
陳は、日本人と中国人の違いを、歴史的な経緯を踏まえ、文明論的にガイドするのも得意としました。
「誤解を生む性格の違い」(朝日新聞社編『歴史と人間—ゼミナール』1972所収)などのように、コミュニケーションの基盤となる価値観の本質的な違いを、文明史的に解き明かしていくやり方です。
たとえば、漢代につくられた燕をふみつけて疾駆する「銅奔馬」の青銅像を評して、次のように述べています。
馬と燕はまったく異質なものだが、おなじくスピードの速いもの。これを踏みつけて失踪する馬の姿にこそ、中国が西欧の文物を拒絶し、近代化が遅れることになった元凶ではないか。
そんなところまで深読みをします。
その意味では陳もまた、梅棹の『文明の生態史観』同様、日本と中国との差を強調する伝統に沿ったものといえるかもしれません。日本と中国とは根本的に違うのだという説が、日本人の溜飲を下げる、何かがあるのでしょう。
1970年代の中国は社会主義国家であり、中華文明の担い手、さらに戦時中の敵国であった中国は、日本にとって二重にも三重にも「他者」でありました。
日本人が中国人の性格をとかく論評するよりも、中国人である陳に語らせたほうが信ぴょう性があるということで、陳の中国人論はしばしば参照されました。おそらく、イザヤ・ベンダサン(山本七平)の『日本人とユダヤ人』が売れたこととも関係しているのだと思います。
中国のなかの「他者」
ところが一方で陳は、その「他者」としての中国を、かならずしも固定的、一国的に閉じたものとして説明はしません。
だからこそ、中国にとどまらぬ、独特な広がりをもった作品世界が実現できたのです。
たとえば、中国の歴史を題材にした、『実録アヘン戦争』(1971、毎日出版文化賞受賞)も単純に清国の危機を描いたものではありません。
アヘン戦争は中国の近現代史のみならず、日本、そしてアジア全体に波紋をもたらした。そういう大きな目でとらえています。
琉球史を扱った『琉球の風』(1992)は1993年NHK大河ドラマ原作となりました。これもまた中国という枠を越え出る視点を提供するものでした。
そもそも陳舜臣には、日中交流を単にビジネス的な観点でとらえるのではなく、それを本当の意味での相互理解、平和につなげていきたいという次のような信念がありました。
そのために中国の歴史をひもといていくと、必ずといっていいほど、シルクロードや海の道を通り、西方世界とつながっていきます。
なかでも注目すべきはインドです。
たとえばインドの独立運動家チャンドラ・ボースに取材した『虹の舞台』や、ムガル帝国を舞台にした『インド三国志』などを執筆しています。
陳はなぜインドに注目したのでしょうか?
植民地人としてのルーツ
1924年に神戸の貿易商の家に生まれた陳舜臣は、もともと幼少のころからイスラム教徒と接点があったといいます。インドの貿易商やタタール系の貿易商などですね。ユダヤ人もよく見たという回想ものこしています。
自伝的な小説である『青雲の軸』(1970〜72)には、イギリス人とインド人にルーツをもつ兄妹、それにタタール人の少女が登場します。
両者とも国と国の間で引き裂かれた存在です(曹志偉2008)。
主人公に据えられたのは台湾系の華僑の陳俊仁。彼には陳舜臣と同じく大阪外語の印度語科を選ばせ、次のように語らせています。
当時のインドはイギリスの植民地統治を受けていました。そのインド人に対する共感の念が吐露されているのです。陳の関心が「イスラム」という宗教よりも、欧米による植民地支配を受けている「民族」に向かったのには、中国でも日本でもない、みずからの出自のあいまいさに根を持つものと思われます。
陳舜臣本人は1941年に大阪外語学校に入学、翌年1942年には一年後輩として福田定一、つまり司馬遼太郎が蒙古語学科に入学しています。
司馬は旧制高校に2度受験を試みての入学で、二流意識を持っていたといいます。この選択には満洲で蒙古語のわかる人材が求められていたことも関係しているかもしれません。
陳舜臣と司馬遼太郎はここで交友を深めています。
陳舜臣の選んだ印度語科ではウルドゥー語も学ばれ、結局ペルシア語、そしてアラビア語もやることになったということです。当時の大阪外語で回教研究が政策的意図をもって推進されていたことは、以前紹介しましたね。
1943年に卒業すると、前年に設立されていた「西南亜細亜語研究所」の助手および大阪外国語学校の嘱託として、インド語辞書の編纂に携わりました。その学識の高さは、のちにオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』の日本語訳を手がけたあらわれていますが、陳の本意は植民地統治に資することにはなく、アジア諸民族への共感にありました。
しかし、敗戦後には、台湾人としての出自が、キャリアの壁として立ちはだかります。同窓会の訃報は次のように伝えています。
国交回復後、日本人の中国に対する関心はその後も高く、1980年代前半には『NHK特集 シルクロード』には井上靖、司馬遼太郎らとともに出演しシルクロード・ブームは社会現象となりました(東京国立博物館で「中華人民共和国シルクロード文物展」(1979)、シルクロードの遺宝」(1985)、「黄河文明展」(1986)が開催)。
一方、陳の視野の広さは、講談社の世界史全集(『ビジュアル版 世界の歴史 全20巻』)毎号の月報に寄せられたエッセイからもうかがえます。
大航海時代について、アジア諸帝国の経済的な繁栄を抜きにしては語れないこと。さらに中国の歴史についても、「中国の歴史の流れをたどるとき、遊牧の塞外民族が、農耕民族を圧迫し、ときにこれを征服するというパターンが強調されすぎるようだ。中国プロパーには農民だけではなく、遊牧民も住んでいた。中国はさまざまな要素から構成され、きわめて多面的である」と、じつに的確にとらえています。
やがて来る「蕃坊」の時代のために
このように植民地生まれで、国際色豊かな貿易港に育った陳舜臣の越境的なまなざしは、日本企業が海外進出を盛んに展開しつつあった1970年代以降の日本の状況にもマッチするものでした。
1984年に書かれた歴史エッセイ『録外録』には次のような一節があります。
蕃坊とは、唐・宋の時代に外国貿易港であった広州・泉州などに設けられた外国人の居留区のこと。日本でいえば「出島」です。
陳は、まさにいま進行している経済のグローバリゼーションにより姿をあらわしつつあったグローバル・シティに、唐代の「蕃坊」(ばんぼう)的なものをみたのです。
そして、そこにはもちろん、彼の神戸という「蕃坊」的な街というルーツがからんでいました。
そこには単なる楽観だけではなく、他民族が共存することがいかに難しいか、リアリスティックな視点ものぞかせます。それは多くの民族をうちにかかえたオスマン帝国の歴史を評した次の言葉にもあらわれています。
歴史を通して現代を語る「大衆歴史ブーム」を背景として、日中国交回復という激動の最中で中国の歴史を身近なものとするのみならず、石油危機後の日本においてイスラム世界への視界をひらかせるガイド役を果たした陳舜臣。
その越境的な想像力が、「ニッポンの世界史」の重心を、ユーラシアの西端の西洋と東端の東洋(中国)から、梅棹のいうところの「中洋」(中東)、それにインド(三木亘の言葉を借りれば「南洋」)や遊牧アジアへと移動させた功績は、やはり無視できません。
その他の参考文献
・曹志偉「文学の根差しと文化の融合—陳舜臣の推理小説『枯れ草の根』について」『愛知淑徳大学論集』8、2008、1-11頁
・福田義昭「昭和期の日本文学における在日ムスリム表象(3)—神戸篇(後篇)陳舜臣」『アジア文化研究所研究年報』52、2017、1-22頁
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