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歴史の言葉No.22 南塚信吾『「世界史」の誕生』を読んだ

読んだので、メモ。


『世界史の誕生』といえば岡田英弘のものが有名だが、こちらは「ヨーロッパ中心史観にもとづく世界史叙述」の系譜を、日本への影響をふくめ、丹念にあたったものだ。

「世界史」のストーリーのルーツはキリスト教的な歴史(普遍史)にあり、その延長線上にヨーロッパ中心主義的な歴史がある。南塚も挙げているように、岡崎勝世の先駆的な研究によって、ストーリーの変遷がわかりやすく整理されるようになった。私も昨年、別の記事で少し紹介している。


そのうえで、本書のなかで特におもしろかったのは、ヨーロッパのなかにも「世界の諸地域の歴史の独自性を承認する世界史」の試みもあったという点だ。「多元的世界史の試み」というタイトルで1章分が割かれている。



カントの一元的な世界史観


18世紀の時点では、ヨーロッパはいまだアジアにおおいなるコンプレックスを抱いていた。繁栄のアジア、貧窮のヨーロッパという図式である。アジアには帝国が並立していて、とてもかなうものではない。ヨーロッパが純粋にマウントをとることができたのは、新世界であるアメリカ大陸だけだった。

カントだったらこう考える。「人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセス」だ。その主人公はギリシア→ローマ→ゲルマン以来え、非合理をうちやぶり発展していったヨーロッパにほかならない。その意味では、アメリカ大陸の人々の歴史は、ほんの「逸話」にすぎない。彼らはヨーロッパが「理性的な世界市民」としての模範を示す対象でしかないのだ、と。


カント (Photo from WIkicommons.)


ヘルダーの多元的な世界史観


このカントに影響をあたえた一人が、ヘルダー(1744〜1803)だ。ヘルダーはドイツ・ナショナリズムを形づくった人と記憶していて、わたしはてっきりそのように思いつづけてきた。でも、現在では笠原賢介の研究にあるように、ヘルダーはむしろ「非ヨーロッパ地域に存在する多様な文化に目を向け、それらの価値を承認し、ヨーロッパを含めそれらがどのように関わり合ったらよいのかを思考のモチーフのひとつとしていた思想家」ということで、ドイツやヨーロッパが選ばれし民族というふうには考えていなかったということである。そうだったのか。


ヘルダー(Photo from Wikimedia Commons.)


南塚によれば、ヘルダーの世界史の方法は、啓蒙思想の前提とするような単一の「理性」を排除したものだったという。歴史的な個性の表れとして、各民族の歴史を叙述しようとし、そこに非合理とみえるものがあったとしても、ちゃんとそれぞれ意味があるものとして受け入れるのである。あくまで「民族」が歴史の担い手とみなし、カントの強調する理性的で自律的個人をゴールとする単一の「人類」を主人公とする世界史とは、逆の論陣を張ったわけだ。ようするに、ヘルダーは多元的で、カントは一元的だった。


日本でヘルダーの受容が遅れた理由


ほかの論点をみてみても、ヘルダーの議論のなかには当時としてはかなりリベラルなものが多い。もちろん、風土と関連づけたアジア停滞論など、限界はある。南塚は「ヘルダーは「多元的」な目と、「相互関係」という視線を持っているわけであるから、アジアも他との相互関係によって、目覚めていくと見ていたと考えるべきであろう」と好意的に評価する(97頁)。このあたり、どのように評価するべきなのだろうか。

後進国としての自覚をもつがゆえに、明確な進歩のストーリーを求めた日本では、多元的なヘルダー的世界史の受容は遅れた。かえって、ヘーゲル的な単線的世界史観のほうがうけいれられていくことになる。京都学派の「近代の超克」も、その延長線上にある。


人類にとって多元的な世界史とは何か


21世紀中盤を迎えるいま、われわれに求められているのは、言わずもがな、多元的な世界史であるはずだ(もちろん、閉じた世界観が多元的に存在し、違いの交わりが縮減していくような世界となることもまた、懸念されることではあるのだが)。羽田正の『新しい世界史へ』(岩波新書)のように「地球市民」としての世界史を構想しようという向きもある。けれども、なにか単一的な参照点をもうけてしまえば、かつての世界史構想の焼き直しとなるおそれはあるまいか。

では、そもそも多元的な世界史とは、どのようにすれば可能なのだろうか。たとえば、新しい世界史探究や歴史総合の教科書の最後には、必ずといっていいほど持続可能性に関するトピックが挿入され「これがわれわれの目標だ」と指南されている。もちろん地球の持続可能性を維持することは、いうまでもなく大切だ。地球は「人間の条件」だからである。
ただ、地球の持続可能性の維持を、人類にとっての次なる類的な目標に設定しようとしたとして、そのうえで多元性をどのようにすれば担保できるだろうか。地球の持続可能性を普遍的な目標に設定するとして、そのうえでどのように各地域の住民(たとえば人間以外の存在も含め)に根をもつような多元性を担保することができるだろうか。

そんなことを考えている。

ヘルダーの『人類歴史哲学考』が岩波文庫から刊行される計画とのこと。すでに1巻は刊行されている。全5巻(!)ということで、なかなか骨が折れそうだ(笑)が、一読の価値があるのではと思わされたのだった。




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