歴史の扉⑥ フライドチキンの世界史
そもそもアメリカにニワトリはいなかった
1607年、イギリスから北アメリカ大陸に初の植民がおこなわれた。その地はエリザベス女王(処女王)にちなみ、ヴァージニアと命名される。
東南アジア原産のニワトリが大西洋をわたり、北アメリカにやってきたのは、このときに植民者たちに持ち込まれてのことである。
だが、その後の植民地では、白人たちのあいだでニワトリが好んで飼育されることはなく、代わりにニワトリの飼育がゆるされたのは、奴隷(あるいは解放された奴隷)の身分のアフリカ系アメリカ人だった。
白人はニワトリにたいした利用価値がないとみなされていたのだ。
植民地時代の南部で拡大していく農場で、アフリカ系アメリカ人はニワトリをみずからの判断で繁殖させて、売買して、食べるようになった。この時代の奴隷は一般的に自分たちの食べる野菜を栽培することは許されていたので、ニワトリの餌としては庭から出るゴミや、残飯や、トウモロコシを挽いた残りかすが与えられた。
(アンドリュー・ロウラー『ニワトリ』インターシフト、2016、262頁)
フライドチキンを発明したのは誰?
では、フライドチキンがアメリカに出現したのは、いつごろのことなのだろうか。
18世紀の終わり頃にさかのぼろう。
このころ、大西洋をとりかこむエリアでは、生まれにかかわらず人間は平等であるべきだという考え方が広まっていた。
その影響も受け、カリブ海のハイチで働かされていた黒人たちが、フランス人の支配に対して立ち上がった。
これをハイチ革命という。
反乱の知らせは、北アメリカのアフリカ系奴隷の耳にも届き、1800年、反乱が計画された。
ヴァージニア州都リッチモンドで鍛造工としてはたらくゲイブリエル・プロッサーという奴隷らによるものだった。
計画が発覚し投獄されると、プロッサーはつぎのように証言する。
白人女性メアリー・ランドルフを新体制の女王にするつもりだった。
「メアリー・ランドルフ」というのは、当時名の知れた料理人で、ジェファソン大統領ともコネのある人物だ。彼女の兄は、ジェファソンの娘であるマーサ・ジェファーソンと結婚し(注1)、夫はリッチモンドの連邦保安官だった。
ジェファソンは選挙運動中であったこともあり、ランドルフによる反論を受けたものの、州知事モンローに犯人の恩赦を要求した。
さらにみごと選挙に勝ったジェファソン新政権は、タバコ価格急落にともないランドルフを連邦保安官から解任し、ランドルフ夫妻は財産の多くを失ってしまう。
ところがである。
家計を切り盛りするため、メアリー・ランドルフがひらいたまかない付きの下宿屋が大当たりする。
1824年にメアリーは自慢の料理の腕を生かして『ヴァージニアの主婦』を刊行。このなかで “南部風”フライドチキンのレシピを発表した。
これが今日のフライドチキンのルーツである(レシピは下記リンク253頁を参照)。
しかし、“南部風”といっても、メアリーがゼロから編み出したわけじゃない。
イギリスはスコットランドのレシピと、西アフリカのレシピの影響を受けたものものだった。
たしかにスコットランドのレシピをもちこんだのはイギリスの植民者だが、数世紀にわたってニワトリを飼育・売買してきたのはアフリカ系黒人である。
ところがいまやフライドチキンはすっかりアメリカ料理の定番だ。
ユダヤ人迫害と綿花の害虫が、卵の消費を増やした?
ところで、イギリスでニワトリの飼育が盛んになったのは、18〜19世紀の植民地の拡大が関係している。
18世紀に、あらゆる動植物を分類整理する博物学という学問が成立し、ヨーロッパ人たちは世界各地の珍しい動植物を研究対象とするようになった。
それをイギリスがリードできたのは、世界中に植民地を持っていて、さまざまな品種をもちかえり、研究することができたおかげだ。
まず注目されたのは、19世紀前半に貿易が自由化された中国から輸入されたコーチン種だ。
鑑賞したりペットとしたりするため、品種改良が進んだ。このニワトリ・ブームの副産物として、コーニッシュやロードアイランドレッドのような産卵数の多い品種が生み出されていったのだ。
当時は鶏肉の消費よりも、卵の消費がメインだった。
さらに19世紀の終わり頃のアメリカでは、いちどにたくさんのニワトリの卵を収容できる孵卵器が発明された。
「1880年にはアメリカ国内で一億羽のニワトリが55億個の卵を産み、1億5000万ドル相当の価値を生み出していた。10年後、2億8000万羽以上のニワトリが100億個の卵を産み、2億7500万ドル相当の価値を生み出していた。」
(アンドリュー・ロウラー『ニワトリ』インターシフト、2016、274頁)
消費の急増を支えたのは、ヨーロッパ出身のユダヤ人移民の波だ。
当時のヨーロッパ、特にロシアやウクライナなどでは、ユダヤ人に対して虐殺を含む激しい迫害(ポグロム)が巻き起こっていた。
これを避け、多くのユダヤ人が自由の国アメリカを目指したのだ。
ニューヨークに殺到した彼らが好き好んで食べた肉こそが、鶏肉だったのだ。
もうひとつの要因は、南部における1890年代の害虫の大流行だ。
綿花を枯らすワタミハナゾウムシの流行のあおりをうけ、何万人もの黒人が仕事を求め、北部の工業都市に移住を迫られた。
このとき、彼らがもちだしたのが、ソウルフードであるフライドチキンだ。
食堂車が白人専用だったため、弁当を用意する必要があったのだ(黒人を運ぶ列車は骨を落としていく様から「チキン・ボーン急行」と呼ばれた(注3))。
総力戦とニワトリ:戦場に牛肉を!
第一次世界大戦(1914〜1918年)は、それ以前の戦争のあり方を一変させた戦争だった。
イギリスによる海上封鎖によって各地で食料不足が深刻化し、ドイツではパンや肉の配給がとどこおった。
ドイツでは家畜向けの飼料作物であったカブラを人間が食べざるをえないほどの危機的状況に陥る。この「カブラの冬」が国民の厭戦気分を高め、国内で革命が起きたことが、ドイツ軍部の要求に応じて新政府が樹立され、休戦を申し出ることになった敗戦の背景にある。
戦争に勝つためにも、食糧は重要な役割を果たすことになったわけだ。
新しい時代の「総力戦」に立ち向かうため、アメリカのフーヴァー政権も、国民がニワトリを裏庭で飼うことを奨励した。
スローガンはこうだ。
「卵を食べれば食べるほど、牛肉と豚肉をたくさんヨーロッパへ送ることができる」
それとともに、合理的な生産方式が取り入れられ、経営規模も拡大されていく。
ナイロンなどの合成繊維の登場や、ワタミハナゾウムシの出現により、綿花栽培が割りに合わなくなっていた南部でも、これまでニワトリ飼育に関心の向かなかった白人男性たちが、アフリカ系黒人や女性たちに代わり経営に手を出すようになっていった。
巨大産業に発展していったフライドチキン
その後、第二次世界大戦を経て、ニワトリの消費量は急激に増加。カーネル・サンダースがケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ第1号店をオープンしたのは1952年、ユタ州のソルトレイクシティにおいてだった。
「産業用ニワトリ」を製造するブロイラー工場は、グローバル化とともに、ラテンアメリカやタイや中国といった東南アジア・東アジアにも広まった。
東南アジア、とりわけタイで養鶏が盛んになった背景には、第二次世界大戦後のトロール漁の爆発的な拡大が関係している。
ディーゼル漁船で根こそぎ魚を獲るトロール漁業では、網に無数のトラッシュ・フィッシュ(魚屑)が混入する。
これを有効活用したものが魚粉(フィッシュ・ミール)で、これをニワトリに食べさせようということになったわけだ。
1970年代のオイルショックで燃料代が高くなり、トロール漁業が衰退してからも、タイは世界有数の養鶏国となっている。
しかしフライドチキンというアメリカ的なライフスタイルに水を差すかのように、20世紀末から21世紀にかけて、鳥インフルエンザ流行が何度も流行。そのたびに大量のニワトリが廃棄処分されるようになった。
過密状態で飼育されるブロイラー施設は、ウイルスにとって格好の培養場となる。ウイルスはアジアのメガシティに広まるや、航空機やコンテナを通じ、あっという間に世界中に広まっていくことになる。
このように、フライドチキンのたどった歴史をふりかえることは、われわれの世界の変化をふりかえることでもあるのだ。
参考文献
注1 Kat Eschner, The First Printed Fried Chicken Recipe in America, Smithsonian Magazine( https://www.smithsonianmag.com/smart-news/first-printed-fried-chicken-recipe-america-180963854/ ) , 2017.
注2 アンドリュー・ロウラー『ニワトリ』インターシフト、2016、275頁。
注3 上掲、277頁。
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