"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第15話 北東アジア・中国・朝鮮・アイヌ・琉球・日本の交易ネットワークの拡大(1200~1500年)
Q. この時代の日本は、ユーラシア大陸東部のなかで、どのようなポジションにあったのだろうか?
【1】北の世界は、遠くモンゴルまでつながっていた!
この頃の北海道はどんな状況でしょうか?
―北海道には北方系の狩猟採集民であるオホーツク人と、本州の文化を受けた擦文文化の人々が、北と南に分布していたよね。
この時代になると、北海道周辺からサハリン(樺太)にかけての地域に、アイヌ人が従来のオホーツク人の文化を継承し、さらに鉄器など日本列島の文化の影響も受けながら、狩猟採集を基盤とする新たな文化を生み出していくんだ。
本州の日本人との交流はあったんですか?
―場所を決めて、干し魚・毛皮などを輸出し、鉄器などを輸入していた。
アイヌが勢力を強めていくと、北方の狩猟採集民はしだいに北に押しやられていくことになる。
当時の樺太(サハリン島)にはオホーツク文化の流れをくむニヴフ人という人たちが住んでいて、アイヌと交易ルートをめぐっての争いも起きるようになったんだ。
アイヌとニヴフ人との間に戦争はあったんですか?
―この時代の前半にはアイヌ人が樺太に攻め入っているよ。
するとニヴフ人は、当時急成長していたモンゴル人の帝国にSOSを求めたんだ。
モンゴル人?
―当時のユーラシア大陸ではね「モンゴル人」が急拡大して、ユーラシア大陸全土に支配エリアを広げていたんだ。
彼らは各地の交易ルートのコントロール下に置き、経済を活性化して利益を吸い上げようとした。
ニヴフ人の求めに応じてサハリン(樺太)方面のアイヌを攻めたのにも、こういった事情があったんだ。
アイヌと貿易していた本州の人たちはどんな人達ですか?
―本州の北部にも、北方との貿易で稼いだ有力者のパワーが強まっているね。
安藤氏っていうのは、もともと東北地方を支配していた蝦夷系の一族(注:安倍氏)をルーツにする人たちで、海を拠点に広範囲の活動をしていた。
この時代の中頃には、津軽(現在の青森県)の十三湊(とさみなと)という港が空前の反映を遂げていたことが、遺跡に見つかるさまざまな地域から伝わった商品からも明らかになっている。
どんな商品が取引されていたんでしょう?
―まず中国政府が発行していたコイン(注:五銖銭や永楽通宝)が見つかっている。当時のヒット商品だった中国の青磁や白磁、天目茶碗もね。
鎌倉幕府はこの「北の交易ネットワーク」を支配下におさめるために役所を置き、青森県の有力者(注:安藤氏)に統括させたんだ。
彼らは、東北地方の太平洋岸でも活動し、現在の宮城県の神社(注:鹽竈神社)との関係を深めていた。
アイヌやアイヌと混血した日本人の交易グループを支配下に置き,北海道南部にも商館を置いて、積極的に交易をしていたんだよ。
【2】西日本 vs 東日本 vs 北日本 の構図に
北日本=北方の交易ネットワークをにぎる。
東日本=弓と馬を武器に、従来の「西日本」の勢力に挑戦する。
西日本=伝統的な権威と大陸とのつながりを武器に、ねばる。
北日本の勢力が強まる一方、東日本(関東)では鎌倉幕府(かまくらばくふ)のパワーが強まっていますよね?
―そうだね。
ただ、支配が及んでいたのは「東日本」中心で、「西日本」ではまだ天皇家を中心とする政権( 院政 )が存続していたんだよ。
源氏のリーダー(注:源頼朝)は「西日本」の政権と真正面から対立することは避け、ちょっとずつ勢力をひろげていく作戦をとったわけだ。
彼は「東日本」の武士たちからの信頼が篤(あつ)く、さながら「東日本の王」だった。
「西日本」の政権にとっても、「東日本」の武士たちの軍事力にはかなわなかったから、彼の権力を認めるしかない。
のちに語り継がれた『平家物語』にはこんな一節がある。
「(都(=西日本)の)軍はまた、親も討たれるし子も討たれるが、死ぬと退き、仏事を執り行って供養し、喪が明けてから(敵に)近づき、子が討たれると、そのつらさや嘆き(があるから)といって、(敵に)押し寄せません。
兵粮米(戦のために用意してある食糧)が尽きたら、
春は田を耕し、秋は刈って集め、夏は暑いのを嫌がり、冬は寒いと(戦を)嫌います。(⇒要するに西日本の軍は戦争なんて嫌)。
東国の軍と申し上げるのは、すべてそのようなことはございません。」
源氏の親分(=源頼朝)は「西日本」の政権から「征夷大将軍」っていう称号が与えられたんですよね。
―まあ、彼は「元からすごかった」わけで、その「元からすごかった」人物に「征夷大将軍」っていう称号がかぶせられたに過ぎない。
だって、前々にも征夷大将軍の役職を与えられた人なんていたわけだよね。
逆に言えば、彼ほどの人望と実力を持つ人物が「征夷大将軍」って役職をもらったものだから、それ以降「征夷大将軍」イコール「すごい」っていう認識になっていくわけ。
で、日本ではその後、この称号を持った武士が約700年もの間、政権を取っていくことになるよね。
700年もですか!
―そう。江戸時代が終わるまでだね。
軍人による政権は、世界的に見ると珍しいものじゃない。
たとえば同じ頃、当時のヨーロッパを中心とする「キリスト教の世界」や「イスラーム教の世界」でも軍人による政権が各地で成長していた(例:十字軍国家、エジプトのマムルーク朝)。
お隣の朝鮮半島(注:高麗(こうらい))でも、この時代に軍人の政権(注:崔氏(さいし)政権)が誕生しているね。
日本の武士による政権の特徴は何ですか?
―武士の組織とは別に、「西日本」の天皇家や貴族の組織を残し続けたところだね。
武家(武士の一族)が日本の全てのコントロールするわけではなく、公家((くげ)天皇家や貴族)の力もうまく利用し続けたわけだ。
でも、武士がしゃしゃり出るのには、公家の側にも不満はあったんじゃないですか?
―そうだね。
鎌倉の政権は、当時の源氏のリーダー(注:源頼朝)のカリスマ性に頼っていたところが大きかったから、彼が死ぬと、今まで従っていた関東の武士たちにも動揺が走った。
取り急ぎ18歳の息子(注:源頼家)が後を継いだけど、お父さんの人気とは比べ物にならない。
実質的な権力は、前将軍の妻(注:北条政子)がにぎることになった。
そのスキをついて反抗をみせたのが、京都の上皇(注:引退後もパワーを持ち続けた天皇。後鳥羽(ごとば)上皇)だ。
上皇の不満はなんだったんでしょうか?
―東日本に土地を持っている有力者たちが、源氏のリーダーの言うことを聞いていたため、自らのコントロール下に置くことができなかったからだ。
東日本の有力者たちは、「家」ごとに、源氏のリーダー(注:鎌倉殿)と個人的に忠誠を誓った。通常は、その「家」の跡取り(注:惣領(そうりょう))となる人が、代表して関係をとりかわすことになる。
土地を保有する権利を認められる(注:本領安堵(ほんりょうあんど))代わりに、さまざまな義務(注:奉公)と忠誠を果たした。
そうすれば今までのように、京都の「天皇のとりまき」(天皇、院、摂関家など有力貴族、神社やお寺)たちに富を吸い上げられることがなくなるからだ(ただし、西日本には、あくまで「天皇のとりまき」との関係をキープし続ける御家人も多かった)。
個人的に忠誠を果たした武士たち(注:御家人(ごけにん))をまとめる機関を侍所(さむらいどころ)といい、「その土地が誰の土地なのかお墨付きを与える機関」を問注所(注:もんちゅうじょ)という。
なんだか「国」みたいになってきましたね。
―そうだね。
鎌倉の都にも、京都をまねして広~い道路(注:若宮大路(わかみやおおじ))が真ん中につくられた。向かう先は源氏の氏神である京都の神社(注:石清水八幡宮)から霊を分けてもらって建てられた神社(注:鶴岡八幡宮)だ。西の方には「浄土」(あの世の極楽)を意識したお寺が建てられた(注:鎌倉の大仏)。
鎌倉の政権は東日本で「独自の法」をつくることができたし、裁判もやった。
西日本の上皇が命令を出した場合にも、鎌倉の政権を通して命令する形がとられた。
さらに「東日本」には国ごとに「守護」という役職が任命され、悪いことをした人を捕まえたり、京都の警備のために軍事力を動員したりする権利などを握った。
つまり、鎌倉幕府は有力な御家人たちを「守護」に任命することで、各国を支配させたわけだ。
一方、没収した公領や荘園には「地頭(じとう)」という役職が任命され、年貢を徴収して国の役所(国衙)や支配権を握る有力者(注:本家や領家)に納めさせたり、治安を維持したりする権利を握っていた。
あれっ。昔ながらの公領や荘園はそのまま残されたんですね。
―そうだよ。
西日本の「天皇の取り巻き」たちには長い歴史があるからね。
カンタンにはなくならない。
前の時代から、引退した天皇の一族(注:院宮王臣家)は、国をまるごと治める権利を獲得して力をつけていたよね。
源氏の政権は、こうした院が「私物化」していた国に対して、御家人(ごけにん)を守護や地頭に任命して「割り込み」、武力を背景にしてしだいに支配権を奪っていくようになるんだ。
有力貴族や有力神社・お寺が各地に持っていた荘園でも同じことが起きているよ。
鎌倉の幕府には独自の財源はなかったんですか?
―持っていたよ。
関東地方の埼玉・東京(注:武蔵)や相模(注:神奈川)を中心に、関東知行国(かんとうちぎょうこく)っていう「将軍を一国の支配者(注:知行国主)とするエリア」を持っていたんだ。
そこには御家人が国司に任命されて、国の役所におさめられるはずの税を「横取り」した。
関東ではしっかり「乗っ取り」が成功していますね。
― 一方、「西日本」では上皇を中心とする体制が強く残り、「挽回のチャンス」をうかがっていたというわけだ。
京都の政権(=朝廷)は、当初から鎌倉の武家政権(=幕府)と対立していたんですか?
―はじめは、京都の政権を乗っ取っていった「平氏よりマシ」っていう認識だったから、真っ向から対立したわけではないよ。
朝廷では天皇家のことを有力貴族(注:関白の九条兼実(くじょうかねざね))が助け、さらにその有力貴族の弟(注:慈円(じえん))は仏教界のトップ(注:天台座主)に就任していた。
なんか、いちばんうまいこと立ち回ったのは、この有力貴族なんじゃないですかね。
―そう見える?
彼らは藤原氏系の貴族で、幕府の東日本でのパワーも認めつつ、西日本の政権のパワーも残すように努力したんだ。
この九条家の人物(注:九条兼実)は、「天皇に近いハイクラスの貴族たちの話し合いによって政治をおこなうべきだ」と主張した。
だけど、それをあまり良く思わなかった天皇(注:後鳥羽天皇)周辺の一族は、幕府と距離の近い貴族を追い出し、天皇のパワーを強くしようと画策していく。
幕府の初代将軍は自分の娘を天皇(注:後鳥羽天皇)と結婚させる作戦をとろうとしたけど失敗し、関係は悪化する。
そんなことがあったんですか。
―幕府の警戒をよそに、天皇は生前退位して上皇となり、幕府と対決する姿勢を見せるになる。
西日本の武士や京都にいた御家人(ごけにん)たちを自分側に取り込み、独自の軍事力(注:西面の武士)も強化させていったんだ。
そんな中、初代将軍が亡くなり、跡を継いだ息子に従わない御家人が現れた。
その筆頭が、平氏の出自をもち、静岡の伊豆に勢力をもっていた北条氏(ほうじょうし)だ。
北条氏(注:北条時政、北条政子)は「将軍がなんでもかんでも決めるのはおかしい」と主張し、有力な御家人13人で話し合って政治をするべきだと主張。
反対派をやっつけて(注:梶原景時(かじわらのかげとき)の乱)、力を伸ばしていった。
どうして北条氏は力を伸ばすことができたんですか?
―北条氏の女性が、初代将軍の奥さんだったからだ。
北条氏は3代目将軍候補に別の人物(注:2代目の弟(源実朝(みなもとのさねとも)))を立てようとし、さらに反対派の御家人を追い落とした(注:比企能員(ひきよしかず)の変)。
で、結局3代目の将軍に意中の人物をつけることに成功するけど、その後も政治的な混乱はとまらなかった。
実際に政治の実権を握っていたのは北条氏のリーダー(注:北条時政)だったから、「幕府を乗っ取ってるんじゃないか」という嫌疑がかけられたんだね。
全然安定しませんね。
―でしょ。
北条氏のリーダーは執権(しっけん)と呼ばれ、将軍を裏で操ろうとした。
その将軍に近づいたのが、さっきの上皇(注:後鳥羽上皇)だったんだ。
でもね、東日本の御家人たちは、自分たちの親分(注:鎌倉殿)が、西日本の上皇と関係が親密になることなんて望まないでしょ。
だってそんなことしたら、また西日本の上皇が、自分たちの大切な領地への支配を強めようとしてくるかもしれないからね。
それで反対派の御家人(注:和田義盛(わだよしもり))らが立ち上がり、鎌倉が戦場になった(注:和田合戦)。
結果は?
―執権の地位を継いだ人物(注:北条義時)と将軍によって鎮圧され、戦後は執権のパワーがさらに強化される結果となったんだ。
で、北条氏はさらに「次の将軍に後鳥羽上皇の息子を就任させる計画」に着手。
交渉を進めていた矢先に、3代目の将軍(注:源実朝)が鎌倉で暗殺される事態となった。
えっ。じゃあ、次の将軍は?
―そんな状況で上皇の息子を跡継ぎになんてできないよっていう話になって、結局は、摂政・関白の地位を独占した最上級の公家(すべて藤原氏系)の人物(注:九条道家の息子、藤原頼経(よりつね))を将軍につかせることになったんだ。
3代目が亡くなった後は、実質的に最高権力はもうほとんど初代将軍の妻(注:北条政子)が握ることになる。
そんなことして御家人は納得するんですかね?
―もうここまでのゴタゴタによって反対しようにも、御家人は北条氏の方針に楯突くことができなくなってるわけだ。
(補足)それにコジツケのような感じではあるけど、この4代目将軍と源氏の間にまったく縁がなかったわけでもない。
初代将軍の妹(あるいは姉)が一条家という摂関家(摂政・関白の地位を独占した最上級の公家)と結婚していて、その娘がさらに摂関家の人物(注:九条家の人物)と結婚。その孫を4代目として迎えたわけだ(注:藤原頼経(ふじわらのよりつね))。
上皇からすれば、鎌倉幕府の将軍に自分の息子をつける作戦に失敗したわけですね。
―そのとおり。
これが大きな引き金となって、起こったのが上皇による幕府を倒す軍事行動だ(注:承久の乱)。
「これからは武家の世の中(武者の世)になる」って、有力貴族出身で仏教界のトップ(注:天台座主の慈円)のお坊さんにも「説得」されたんだけどね。
もはや後には引けなかった。
で結局、上皇の呼びかけに対して西日本の御家人のほとんどが反応せず、準備不足もたたって1ヶ月もたたないうちに鎮圧されてしまった(注:承久の乱)。
北条氏は上皇側を徹底的に罰し、幕府にとって都合のいい人物(注:後堀河天皇)を即位させてしまう。さらに、天皇の跡継ぎも、幕府の許可なしではできなくなった。
で、幕府側についてくれた御家人には西日本の土地で「地頭になる権利」が与えられ、徴収した年貢は「地頭のもの」にできるようになった。
さらに、そこにもともと「朝廷が置いた役所(国衙(こくが))の管轄エリア」(公領)や「荘園」があったとしても、場合によっては生産物の半分を「横取り」できることも定められた。
源氏側についた御家人にはおいしいメリットですね。
―ただ、やっぱり古くからの公領や荘園では、その後ろ盾である「西日本の大物」(天皇家、院、摂関家、有力寺社など)のパワーがまだまだ強く、地頭は思うように取り分を得られないことも多かった。
そこで、自分の担当エリア内の人々をこきつかったり、徴収した年貢をネコババし、国衙(こくが)や荘園の領主におさめなかったりする地頭も出現するようになっている。
【3】西日本にも東日本の幕府の力が広がっていった
地頭は「やりたい放題」ですね。
―土地の支配権をめぐって争いが多発するほど、当時の日本では農業技術が進歩し、生産量が増加していたんだよ。
商業が盛んになり、各地に自然発生的な市場が生まれるのもこの時期のことだ。
岡山県の荘園の様子。履物、布、米、魚が売られ、人々でにぎわっている。(「一遍上人絵伝」(清浄光寺 蔵))
日本の土地は限られているからね。
大きな土地でたくさんの人を投入して行う農業よりは、小さな土地でいかに手間ひまかけて収穫を得るかってことのほうが重視されていったんだ。
こうして、とくに畿内エリアの荘園では、従来のように領主に「やらされて」農業しているというよりは、「自分たちの大事な土地を、みんなで耕していくんだ」っていう仲間意識が芽生えていく。
荘園領主も地頭も、こういう仲間意識を持った農民から「名主」(みょうしゅ)を選び、年貢の納入をまかせるようになっていったんだ。そのほうがやる気もでるしね。
まさに「村」って感じですね。
―そうそう。このとき以来の「村」意識は、今でも日本の文化の一つのルーツになっていると考えられる。
「村」の人たちは収穫をしっかり荘園領主におさめている限りは、生活が保障される。みんなでがんばって農作業をすることが「村人として大切なこと」として共有され、プライドを持って荘園領主に一定の年貢を納める制度も広まっていった(注:百姓請(ひゃくしょううけ)(地下請(じげうけ)ともいう))。
でも、そこに鎌倉の政権から地頭が配置されるようになると、困ったことになる。
地頭の横暴が強まるくらいなら、まだ「荘園領主の支配のほうがマシだった」と、村人が一丸となって「地頭の支配のひどさ」を荘園領主や、幕府の法廷に訴える例も出てくるようになっている(注:紀伊国 阿氐河荘(あてがわのしょう))。
みんなで一斉に逃げちゃう(注:逃散(ちょうさん))こともあった。
そういうもめごとはどうやって解決されたんですか?
―1つ目の解決法は、ある一定のエリアについて、山を含めて「地頭」と「荘園領主」との間で「線引き」をおこなう方法だ。
2つ目としては、これ以上波風を立てるのはやめ、一定の取り分を地頭から受け取ることを条件に、あとは地頭に支配権をまかせるという方法だ。
こういうふうにして、地頭はしだいに担当エリアの土地と人に対する強い支配権を獲得してくことになったんだ。
律令制の時代のように「人を個別に支配する方式」でもなく、荘園公領制の時代のように「場所によって支配権を及ぼす人が何人もいる方式」でもない。
「一定のエリア内の人と場所を、一括して支配する方式」への転換だ。
ともかくこうして、東日本の政権が西日本に勢力を及ぼすことになったわけですね。
―毛利氏のようにこのときに西日本に移動した武士団も多いね(注:西遷御家人)。
さらに「どこの土地が、誰の土地なのか」を示すために、国ごとに基本となる地図(注:大田文(おおたぶみ))も作成されるようになる。
この時代の後半になると、中国でも同じような地図が作成されるようになるね(注:魚鱗図冊(ぎょりんずさつ))。
さらに京都の朝廷の近くには六波羅探題という組織が置かれ、天皇家や貴族たちが「悪巧み」をしないように監視し、西日本で独自の法を定めたり裁判をしたりすることもできた。
西日本<東日本の情勢になったわけですね。
―徐々に逆転してるよね。
でも、これをコントロールしていたのは実は鎌倉の将軍ではなかったんだ。
将軍はすでに「置き物」状態で、実権を握っていたのは北条氏(注:北条氏嫡流の家(得宗家(とくそうけ)))だ。
でも、上皇の反乱を鎮圧した北条氏のトップ(注:北条泰時)には、独裁ができるほどのパワーも人望もなかった。
従来は初代将軍の妻(注:北条政子)が最高権力を握っていたけど、乱の後に亡くなってしまっていたからね。
そこで、まわりを親族でかため、「話し合いの場(注:評定衆(ひょうじょうしゅう))」をもうけて、そこで政治を決定するようにした。執権の補佐として連署という役職も置いて、叔父(注:北条時房)を就任させているよ。
「話し合い」をちゃんとしているんだっていうことで、御家人を「納得」させようとしたんだね。
御家人は納得したんですか?
―それだけでは、なかなかね。
この頃の日本は夏に雪が降るほどの異常気象に見舞われ、各地の御家人が食料問題や土地問題を処理する必要に負われたことも影響している。
御家人たちがいちばん「納得」してくれるものは何か。
それは、かつてのカリスマであった初代将軍の「考え」や、武士としての「常識」(注:道理(どうり))や「しきたり」だ。
そこで、武家として初めて、武家独自の法がつくられたわけだ。これを御成敗式目(ごせいばいしきもく)という。その内容はのちの日本社会に大きな影響を与えることに成るよ。
その後の幕府はどうなっていくんですか?
―次の執権(注:北条時頼)の時代には北条氏へのパワーの独占がすすめられていき、裁判の制度も効率化させた(注:引付衆(ひきつけしゅう)の設置)。
反対派の御家人を追い落とし(注:宝治合戦)、さらに上皇の息子(注:宗尊親王(むねたかしんのう))に即位させている。
どうしてわざわざ上皇の息子なんかを迎えたんですか? 武家じゃないし。
―当時の将軍は、摂関家(注:九条家)の人物だったよね。北条氏も上皇も、摂関家のパワーが強くなりすぎるのを恐れたんだ。
そんなことをやっているうちに、ユーラシア大陸ではたいへんな「激動」が起きていたのも知らずに―。
あ、初めに出てきたモンゴル人ですね。いよいよ。
―そうそう。
【4】モンゴル人の拡大は、貿易ブームの「あかし」
この時代の鎌倉幕府とか朝廷って、ユーラシア大陸との「おつきあい」ってしていたんですかね?
―国と国とのつきあいよりも、民間レベルの貿易が盛んだった。
当時の中国では、中国南部の港町が空前の貿易ブームを迎え、長江の下流ではお米が大増産されるとともに、「売り物向けの作物・製品」の生産が激増していた。宋の時代には白磁や青磁といった「何でも鑑定団」に出品されそうな壺や茶碗が、最先端のテクノロジーを駆使したヒット商品となっていた。博多からは大量の白磁が見つかっていて「白磁の洪水」ともいわれるよ。
日本側からは金や硫黄といったレアメタルや、高品質な刀や剣が輸出されていた。
売り買いがさかんになればなるほど、お金の取引も増えていく。
世界初の紙幣が生まれるのもこの時代の話だけど、同時に青銅でできたコインも大量に発行されていた。
商人たちはこのコインに目をつけた。
日本に輸入して「お金として使おう」と考えたんだ。
日本ではお金は発行されていなかったんですか?
―朝廷も幕府もお金は発行していなかったんだ。
お金っていうのは、「これはお金である」って「お墨付き」を与えることができるほどのパワーがある組織がないと、価値が不安定になりがちだ。
当時の日本には朝廷と武家という「2つの政権」が存在していたから、統一したコインを発行することが難しかった。
そこで中国から輸入したコインを代用することにしたんだ。
ほかにも「お寺を建てる」という理由でお金を募って船を出し、中国から商品をたくさん積んで持って帰り、その利益でお寺を建てるというプロジェクトも企画されていた。
クラウドファンディングみたいですね。
―そんな感じ(笑)
韓国沖に沈没していた船(注:新安沈船)が引き上げられ、それが「東福寺建設プロジェクト船」(注:東福寺造営料唐船(からぶね))として中国の長江下流(注:寧波(ニンポー))から帰る途中であったことが明らかになっている。
乗組員は日本人中心で中国人と朝鮮人も乗っており、おどろくほど価値のある商品が満載だった。
この船はもう少し後(この時代の中頃)の船だけど、この時代前半もお坊さんの行き来も多かったんだ。
あるお坊さん(注:勝月坊慶政(しょうげつぼうけいせい))という人は、中国南部の泉州を訪れている。
少し後にイタリアのヴェネツィアの商人(注:マルコ・ポーロ)が訪れ「世界の2大貿易港の一つだ!」と絶賛した大規模な国際貿易港だ。
その船上で出会った外国人からもらったメモ(注:高山寺方便智院旧蔵 紙本墨書南番文字)が、今でも京都のお寺に残されているんだけど、なんとそこに書いてあった文字は「ペルシア語」!
南宋にはイスラーム商人の大規模な居住区があったんだ。泉州の長官(注:市舶司)についていたのもイスラーム教徒のアラブ人(注:蒲寿庚(ほじゅこう))だった。
つまり、日本人がイスラーム教徒に会った最古の記録である可能性がある。
さまざまな異文化にふれて、ビックリしたでしょうねえ。
この時代、中国から伝わった仏教はどんな仏教だったんですか?
―戦争の多い時代に人々や武士の心を打ったのは、従来の「山にこもっての修行が必要な仏教」ではなくて、念仏などの「ただ一つのこと」に集中するだけでよいとする「シンプルで誰でも実践できる仏教」だった(注:鎌倉新仏教)。
ただ、無理をしなくても、人間にはもともと誰にでもブッダになれる力が備わっているんだよ大丈夫っていう思想は、以前から天台宗の中にもあった考え方だから、まったく新しい考え方っていうわけでもない(注:天台本覚思想)。
この「ただ一つのこと」を重視する流れから、「法華経(ほけきょう)というお経を、ただひたすら信じるべきだ」「日本を守るには、そのトップが法華経を信じるべきだ」と強く主張し、それ以外の宗派を激しく批判する宗派(注:日蓮宗)もあらわれている。
こういう「新しい風潮」とはちょっと別の動きを見せたのは、座禅という修行を重んじた禅宗と、お坊さんとしての厳しい決まり(戒律)を重んじた律宗(叡尊(えいそん)、忍性(にんしょう))だ。
禅宗も律宗もさかんに中国からお坊さんを呼び、政治権力にも積極的に近づいた (ほかに貞慶(じょうけい)、明恵(みょうえ)も戒律の復興を呼びかけつつ、恵まれない人のための活動に力を入れている)。
時代の変化に合わせて、新しい形のスタイルが求められたんですね。
―そうだね。
今でも政治家の中にはお坊さんにアドバイスを求める人がいるように、教養や中国情勢に詳しいお坊さんが精神的な支柱として権力者に求められたんだ。外交文書の作成を担当したお坊さんもいる。
ちなみに修行のために日本でもお茶が飲まれるようになったのはこのころからだ。
また、神社の側では、従来のように「日本の神様は、仏の生まれ変わり」とする考え方を見直し、「仏のほうが、日本の神様の生まれ変わり」だ(注:反本地垂迹説)を打ち出す神官も現れている。伊勢神宮(注:伊勢神宮の外宮(げくう))の神官(注:度会家行(わたらいいえゆき))のとなえたこの説は、のちの時代にさらに発展していくことになる。
このように、日本と大陸との「つながり」は途切れることなく続いていたんだけど、そんな中、日本にモンゴル人の元(げん)からある外交文書が届いた。
(モンゴル人は中国も支配下におさめて「元」(げん)という王朝を名乗っていた。)
モンゴルからの文書には何て書いてあったんですか?
―「兵を用ゆるに至るは,夫(そ)れそれたれか好むところぞ。王,それこれを図れ」
(兵を用いるなんて,誰が好むだろうか。王は,これを考えていただきたい)
王っていうのは、日本の幕府の将軍のことを指していた。
これを読んで、どう思ったと思う?
兵を使うなんて、だれが好んでするものか。よく考えたほうがいい。
うーん、好きで戦いたいわけじゃないってことですよね。
本気で戦う気なのか、そうじゃないのか。2通りに読めそうです。
―だよね。
結局これを見て当時の幕府は、どうしたか。
この手紙を送ってきた使者を殺害し、返事をかえさないことにしたんだ。
そりゃマズいでしょうね。
―ね。
実はこの部分は,モンゴル人の帝国が文書を出すときには必ず挿入されていた定型文だったようだ。
それに過剰反応してこんなことになってしまった可能性もある。
(注)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.51。
当時の幕府はどんな体制だったんでしょうか?
―当時の幕府を握っていた北条氏のトップ(注:北条時宗(ときむね))は、独裁体制を強めていたよ。
「内側の争い」に困っていた北条氏は、問題を「外敵との戦い」にそらそうとしたんだね。
結局モンゴル帝国の皇帝(注:フビライ・ハーン)は再度日本に手紙を送ったが既読無視されたため、日本侵攻計画がはじまった。
1度目の侵攻は朝鮮から北九州へのルートがとられた。
でも、騎馬戦が得意なモンゴル人は、海戦は不得意だ。当時支配下に置いていた朝鮮の高麗(こうらい)の軍人たちの反乱(注:三別抄の乱)もあり、さらに暴風雨もあったため、撤退を余儀なくされる(注:文永の役)。
本当に攻めて来たことにビックリし、幕府は西日本の御家人を動員し、北九州と山口県の防備につかせた(注:異国警固番役(いこくけいごばんやく))。博多湾には石積みの防壁が気づかれたよ(注:石築地(いしついじ))。
【5】日本人と、イスラーム教徒が「出会った」
モンゴルはまた攻めてくるんですよね。
―そう。
1度目の襲来の翌年、日本につかわされた使者は、鎌倉で首をはねられることに。
またまた過激な対応ですね…。
このときに殺された使者には中国人のほかに、撒都魯丁(さとるじん)という人物が含まれていた。
これは中央アジアか西アジア出身のイスラーム教徒(ウイグル人)とみられるよ。
記録に残る中では、おそらく日本を訪れた最初のイスラーム教徒だ。
でもどうして使節としてつかわされたんでしょう?
―モンゴル帝国はイスラーム教徒であっても、中国人ではなくても(注:色目人(しきもくじん)と呼ばれた)、優秀な能力があれば官僚として採用していたんだよ。
モンゴル帝国の建国者の時代から、イスラーム教徒の商人との結びつきは重要視されていた。
あくまで記録に残っている例だから、この時代にはほかにもイスラーム教徒の商人が日本を訪れていた可能性は多いにある。
その後モンゴルは、中国(南宋)の皇帝を滅ぼし、中国や朝鮮半島の兵力も使って2度目の侵攻を実行にうつした。
だけどこのときにも暴風雨の影響があって失敗(注:弘安の役)。
そもそも支配下に置いた人々を戦いに使っているわけだから、やる気もでないよね。
それ以降も侵攻は計画されたけど、モンゴルの王族同士の争いや、支配地域での抵抗(注:ベトナムの陳朝による撃退)もあって、実現にはいたらなかった。
ベトナム人は3度目の侵攻で大勝利をおさめた(白藤(バクダン)江の戦い。© Báo Điện tử Giáo dục Việt Nam)
じゃあ、日本と中国との関係は冷え切っちゃうんですか?
―ううん。
むしろ民間の貿易はさかんになるよ。
モンゴル人は海の貿易を国で管理しようとしなかったから、空前の貿易ブームを迎えるんだ。
さっき話した「お寺建設プロジェクト船」が代表例だね。
モンゴル人の侵攻の後、鎌倉の政権はどんな影響を受けたんですか?
―モンゴルに対する戦争で陣頭指揮をとったことをきっかけに、西日本の支配権も獲得していくことになる。
一時、北条氏から幕府の主導権を取り返そうとする改革(注:弘安徳政)もおこなわれたけど、結局、紆余曲折を経て、北条氏の中核一族(注:得宗)が権力を取り返ししていくことになる。
モンゴルの3回目の襲来予告を受けて鎮西探題(ちんぜいたんだい)という役所がつくられたけど、結局は3度目の侵攻はなく、「九州を含めた西日本の御家人をコントロールするため」に役立つことになった。この鎮西探題と西日本の守護の役職には、北条氏の中核一族(注:得宗(とくそう))が任命される(注:得宗専制政治)。
幕府と朝廷との関係は?
―これだけ幕府の力が強くなると、朝廷の中にも「なにか問題が起こったら、幕府に解決してもらおう」という動きも出てくる。
例えば、朝廷で天皇の跡継ぎ問題が起きると、これに幕府が介入し,2つの系統の出身者が交互に即位する(注:「両統迭立」(りょうとうてつりつ))という解決方法がとられることになった。
なんでそんなことしたんですか?
―この2つの系統の天皇家は、各地に広い荘園(注:大覚寺統の八条院領、持明院統の長講堂領)を持っていた。
「どちらの系統から天皇が出るか」という問題は、その荘園の支配に直結する問題だったんだ。
でも、幕府によって皇位継承が決められることになったことに、朝廷から幕府に反発する声も出るようになる。
それに、今回の戦いでは新しく領土が手に入ったわけじゃないから、「戦ったのに褒美をもらえない」と御家人からクレームも高まった。
加えて「うちがお祈りしたから勝ったんだ!」と、各地の寺社が幕府に見返りを要求することも。
そんなこと言われてもって感じですね…
【6】中国の朱子学の影響を受け、天皇が復活をめざす
これに対し、新たに即位した新進気鋭の天皇(注:後醍醐天皇)は、幕府の定めた原則に反して、自分の子孫に皇位を継承しようとした。
天皇を描いた絵(清浄光寺 蔵)をみてみよう。
かぶりものとして、冠の上に【天皇】の冠(礼冠(らいかん))を重ねてつけている。服装(直衣)も【天皇】のイメージ。真上の文字「天照皇大神」(アマテラスオオミカミ)は【天皇】のご先祖の神さまだ。
でもその右の文字には「八幡大菩薩」と書かれている。つまり仏さまだよね。《仏教》だ。で、よくみると服の上に《仏教》の袈裟(けさ)を重ね着しているでしょ。で、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手には五鈷鈴(ごこれい)を持っている。これは《密教》(真言密教)で崇拝する菩薩の持っている道具だ。さらに敷物は《仏教》を象徴するレンゲである。獅子座という台とともに、位の高いお坊さんが座るものだ。
かと思えば、左側には「春日大明神」とある。これは藤原氏の氏神で、仏教の教えと混ざった『神』だ。上に垂れている幕も『神様』を象徴する御帳だし、下のほうにはやはり『神』を示す狛犬(こまいぬ)がいるよね。
つまり、この天皇は【天皇】と《仏教》と『神』の要素をすべてミックスし、まったく新しい体制をつくろうとしていたことがわかるね。
当然といっちゃ当然ですね。
―彼は中国では流行していた朱子学(しゅしがく)という学問の影響も受け、「日本を支配するのは天皇だ」という意識を強めていく。
何度か幕府転覆計画を画策するけどいずれもバレてしまう(注:正中(しょうちゅう)の変、元弘(げんこう)の変)。
天皇はさらに鎌倉幕府に反抗的な新興の武士に「お墨付き」を与え、年貢を納めることを拒否した武装集団「悪党」(武士、商工業者、農民などで構成されていた)を組織化させていく。
それに加えこの時期には、瀬戸内海の海賊の大反乱や、東北地方の人々の大反乱も発生するが、幕府は手も足も出ない状況だ。
反幕府派の天皇(注:後醍醐天皇)は、ついに反乱を開始。
それに対し幕府は源氏の名門出身の人物(注:足利高氏(たかうじ))に鎮圧させようとしたものの、なんと寝返って逆に鎌倉幕府をひっくり返してしまう。
で、この人が新しく室町幕府を建てるんですよね?
―うーん、まだだよ。ちょっと待って。
当初この人物(注:足利高氏)は、あくまで天皇(注:後醍醐天皇)の側についていたんだ。天皇からは「尊」という一文字をもらって改名しているね(注:足利「尊」氏)。
後醍醐天皇にとっての理想は、かつての律令政治。
国が統一的にすべての土地を把握し、中国風の制度で支配するシステムを復興させようとした(注:建武の新政)。
でもそんなことできますかね?
―まあ、時代錯誤だよね。
朱子学の影響を受け「天皇の権力は絶対」と考え、全く新しい方法で権力を固めようとしたものの、「反乱に加わった褒美が少ない」と武家の側からの文句も出る始末。
そんな中、各地では鎌倉幕府を実質的に牛耳っていた北条氏の反乱も起きる。当時鎌倉の支配をまかされていた人物(注:足利直義(ただよし))は、北条氏に追放されてしまった。
それに危機感を覚えた武士(注:足利尊氏)は、「もはや天皇にはまかせておけねえな。もう一度、武士による政権を復活させよう」と考えるようになり、天皇に無断で鎌倉で窮地に陥っていた弟(注:先ほどの足利直義)を助けに向かったんだ。
天皇はこれに怒り、別の武士(注:新田義貞や楠木正成)に追討を命令したものの、結局負け、京都を占領されてしまう。
【7】日本の政権が分裂する中、「海賊」の力が強まる
京都を占領すると、この源氏の名門出身である武士は京都に別の天皇を立て、幕府の再興を宣言した。幕府は京都の室町に置かれたので、室町幕府と言うよ。要するに「鎌倉幕府2.0」だ。
主導権を失った「もうひとりの天皇」はどうなったんですか?
―奈良県南部の吉野で「自分のほうが本当の天皇だ」といって存続し、内戦が続いたんだ。
せっかく天皇による政治が復活できそうなところまで行ったんだもんね。
ねばるわけだ。
この「天皇が二人いる時代」を南北朝時代というよ。
天皇が2人だなんて、こまっちゃいますね。
―ちなみに同じ頃、ヨーロッパではキリスト教(カトリック)のトップである教皇が2人~3人になっているよね。
偶然だけど。
南北朝の争いは日本中に広がっていくんだけど、どう見たって南朝側のほうが劣勢だ。
それでもしぶとく60年間抵抗し続けるのは、全国の勢力が「南北朝の争い」を口実に、どちらかの勢力にくみしつづけたからだ。
壊滅的状況の南朝の天皇は、みずからが正しい血統だと主張する「歴史書」(注:神皇正統記(じんのうしょうとうき))を心の支えにがんばるんだ。
京都(北朝)側はどうなっていますか?
―京都で政権を握った武士(注:足利尊氏)は、かつて鎌倉の将軍も授かったことのある「征夷大将軍」という位を天皇からもらっている。
箔(はく)を付けようとしたんだね。
で、政治は「弟」(注:足利直義(ただよし))と分担しておこなおうとした(注:二頭政治)んだけど、しだいに政権の運営をめぐって「兄弟げんか」が起きちゃうんだ(注:観応の擾乱(かんのうのじょうらん))。
北朝は北朝で争いになってしまったんですね。
何をめぐって争ったんでしょう?
―いちばんの問題は、将軍に従う御家人に与える「ごほうび」をどうやって配分するかっていう問題だ。
弟としては、ご褒美を与えるために伝統的な荘園に手を付けるのは混乱のタネになるからよくないと考えた。
それに対し、兄側に立った将軍の補佐役(注:高師直(こうのもろなお))は、「ごほうび」を確保するためなら、荘園の収穫物を「横取り」してもやむを得ないという考え。後者に集まったのは「伝統なんてくそくらえ! 今は中国の輸入品(唐物)のほうがナウいんだよ!」と言えちゃうような人たち(注:ばさら者)だった(注:佐々木道誉(ささきどうよ))。
この争いが全国の武士の間に広がって、内戦になってしまったんだ(注:観応の擾乱(かんのうのじょうらん))。
どっちが勝ったんですか?
―結局、勝ったのは後者だけど、その後も領地をめぐる争いと結びつき、同じ家柄や目的を掲げて仲間(注:一揆)をつくり、互いに争う状況が続いていった。
そんな中、各地の治安を維持することができる人として注目されたのが「守護」だった。
鎌倉幕府の時代よりも権限が拡大され,管轄していた国における実権を拡大していうと、複数の国の守護職について、その地位を世襲する者も現れていくよ(注:守護領国制)。
この時代の中頃には、一つの国の領地の半分の年貢を守護が集めることができるところも出てくる(注意:半済令)。
「荘園」という伝統的な利権が、どんどんなくなっていきますね。
―そうだね。
でも、しだいにこういう守護は、幕府のいうことすら聞かなくなっていくんだ。
守護は地元の武士たちを、「自分の家来」して編成していくようになる。
その後の幕府は,こうした有力な守護の「寄せ集め」になっていくよ。
幕府には難しい舵取りが迫られますね。
―大変だよね。
まずは南北朝の争いも収拾しないといけないしね。
そんな中、ユーラシア大陸東部の情勢も急展開を迎えているよ。
日本が政治的に混乱している中、中国では漢人がモンゴル人を北に追い出し、中国本土に「明」(みん)という国を建てたんだ。
「家来が主君のいうことを聞くのは当然だ」とする儒教の新しい解釈(注:朱子学)を正義とし、皇帝のパワーを強化させていった。
また、朝鮮半島の沖合では倭寇(わこう)と呼ばれる海賊たちの活動が盛んになっていた。彼らは沿岸の国の言うことをきかず、自由に商売をしたり略奪をしたりしていたグループだ。
この取締りで名を上げた将軍(注:李成桂(りせいけい))は、今までの王国(注:高麗)を倒し、新しい王国である朝鮮を建国した。
それで海賊の活動はおさまったんですか?
―いや、いっこうにおさまらない。
その後もしびれをきらした朝鮮の王様は、海賊の根城であった対馬(つしま。福岡の北の海上にある)を攻撃(注:応永の外寇、己亥東征(きがいとうせい))。
古来、朝鮮半島との貿易を活発におこなっていた対馬は、山がちな地形で、生きていくには船に乗って外に出るしかなかった。
日本と朝鮮との間にあるまさに「あいまいなエリア」だったんだ。
対馬には朝鮮にゆかりのある仏像も多く残る(産経ニュースより)
その対馬の有力者(注:宗氏(そうし))はやがて京都の幕府から「守護」に任命され、朝鮮の王様からも朝鮮との外交や商業をコントロールする特別な権利(注:朝鮮に行く船に「ビザ」(文引という渡航証明書)を発給する権利)を獲得していった。
日朝をまたにかける活躍!すごいですね。
―朝鮮の王様も幕府も、互いのとの「つながり」を確保するには、対馬の有力者の「専門性」を頼るしかなかったんだ。
朝鮮からは、当時の日本では珍しかった「木綿(もめん)」(兵隊の服に使われた)が手に入るし、日本からは銅や硫黄、それに沖縄が東南アジア方面から手に入れたスパイスや赤い染料(注:蘇芳(すおう))が手に入る。
朝鮮側は日本人の貿易を朝鮮半島南部の「3つの港」(注:三浦(さんぽ))での正式な貿易に限った。でも一方で、対馬からの非公認の商人(注:恒居倭人)の貿易も続いており、やがてに問題視されることになっていく。
中国は海賊に対して、どんな対応をしましたか?
―中国の初代皇帝(注:朱元璋)は、日本に「なんとかしろ」と使節を送って要求。外交使節は、当時なんとか九州でねばっていた南朝の勢力のところにやって来た。
福岡県の太宰府をおさえていた天皇(注:後醍醐天皇)の皇子(注:懐良親王(かねよししんのう))が交渉に当たった結果、なんと中国はこの皇子を「日本国王」として認めているんだ。京都の「室町幕府」には、倭寇退治をする実力も余裕もないとみなされていたわけだ。
これに幕府は「この皇子は、明の援軍とともに北朝を攻めてくるんじゃないか」と恐れ、慌てて九州の平定を急ぐことになる。
【8】将軍が中国の皇帝に「日本国王」と認められた!
中国はその後も九州の南朝勢力を「王」と見なし続けたんですか?
―その後、南朝の九州拠点(注:征西府)が、北朝勢力(注:九州探題の今川貞世)によって倒されると、交渉相手を南朝側から北朝側に切り替えた。
これに対応したのが、当時の室町幕府の将軍(注:足利義満(よしみつ))だ。
この人はどんな人なんですか?
―この人は幼い頃は有力な守護(注:細川頼之(よりゆき))のコントロール下にあったけど、しだいに権力の座に上り詰めようとするほかの有力守護との争いが激化。
成長して自分で政治ができるようになると、口出しする有力守護を順に蹴落としていく(注:土岐康行の乱、明徳の乱、応永の乱)。
官制のトップである太政大臣(だじょうだいじん)にのぼりつめていき、公家(天皇家や貴族)に対しても口出しできる力を付け、ついにバラバラになっていた南北朝の統合も実現させた。
どうしてそんなことができたんですか?
―彼が短期間で権力を握ることができたのは、独自の親衛軍(注:奉公衆(ほうこうしゅう))を整備し、金融業を営む業者(注:土層や酒屋)を保護する代わりにお金を得ることができたからだ。
「商業」に目を付けたんだね。
その上で彼の選んだ選択は「出家」してお坊さんになることだった。
どうしてお坊さんに?
―当時強力をもっていたお寺の勢力(注:延暦寺など)に対抗しようとしたんだ。お坊さんにランクを与える権力までゲットしている。
また、出家するということは同時に “無所属” になるということでもある。
単なる公家のトップというだけでなく、同時に武家をも従わせるための作戦だった。
そんなすごい人だったんですね。「金閣を建てた人」っていう認識しかありませんでした…
―さっき出てきたように、当時の明が海賊の取締りをする必要があったのは、初代皇帝のライバルたちが海賊として東シナ海で暴れ回っていたからだ。
そこで国内の治安維持のために貿易を厳しく規制し、東シナ海の沿岸各国に取締りが可能な勢力がいないか探していたんだよ。
そこで白羽の矢が立ったのが、この将軍(注:足利義満)だったんだ。
彼は倭寇の退治を期待され、中国の明の2代皇帝から「日本国王」に任命される。
日本に「日本国王」の位を渡したのは、ライバル(注:燕王(えんおう))に対抗する意味もあったんだけど、結局そのライバルによって自殺に追い込まれてしまった(注:靖難の変)。
えっ。日本は、次の皇帝と「いい関係」が築けるんでしょうか?
―そこが彼の用意周到なところ。
将軍の使者は「もしも」に備えて、「2代目皇帝 様」と「3代目皇帝 様」の2パターンの手紙をたずさえていたんだ。
すごい(笑)
―すると、日本の将軍の使者は早々と「新皇帝の即位おめでとうございます」と、代わって即位した第3代皇帝(注:永楽帝)に対して挨拶する。
その甲斐あって、貿易にも積極的な新皇帝は、「日本国王之印」の金印と勘合(かんごう)という「貿易許可証」を送ったんだ。
つまり?
―こうして室町幕府は、明との貿易を独占する権利をゲットしたんだ。
それ以前には、自由に中国や朝鮮と外交関係を結ぼうとする九州の有力者(注:島津氏、今川了俊、大内義弘など)もいたんだけど、これ以降は日本の外交権を独占することになったわけだね。
ちなみに日本の政治家が「国王」として中国の皇帝の「子分」となるのは、いつぶりのことだろう?
奴国? 卑弥呼?
―倭の五王って覚えてる? そのとき以来だね。
この将軍は、寺社とか公家に対しても絶大なパワーを持っていたわけだから、もはや武家の政権である「幕府」っていうより、もはや「室町王権」を目指していたとも言える。
商業や貿易に目をつけたところが、大きなポイントだったんでしょうね。
―そうだね。
「世界に目を向けた人物」だったといえるね。
この期間は日本だけでなくユーラシア大陸全体の交易が活発化していった時代にあたる。
海域や大陸の影響を受け,市場経済が発展していった時代なんだ
中国からはこの時代の前半以降,貨幣が輸入されるようになり,しだいに流通するようになっていたよね。この頃になると青銅のコインの代わりに,秤量貨幣(はかりで重さを量って価値を決める貨幣のこと)として「銀」が使われるようになる。
でも、そんな彼でも完全に支配下に置くことができなかったところがある。
どこですか?
―前にも出てきた東北から北海道にかけての勢力(注:安藤氏)だ。
彼らは青森の港(注:十三湊(とさみなと))を中心に大繁栄し、蝦夷の反乱を鎮圧した功績から、「日の本将軍」の称号まで与えられている。
彼らがいなければ東北地方をコントロール下におさめることは難しかったんだ。
彼らが北海道のアイヌと交易して得たコンブやラッコ・アザラシ・貂(てん)の皮は日本海を通って京都に至り、京都の産物(馬や中国のコイン)は逆に青森県に向かった。
アイヌの人たちも交易に参加していたんですね。
―北海道の北にサハリンという島があるよね。その対岸の地域を「沿海州」という。
この時代の中国(注:明)はこういった地方に役所を置いて、現地の有力者を「えらい役職」につけて代わりに支配させようとしていたんだ。
言うことさえ聞けば現地の有力者の支配は認められたから、貢ぎ物(貂(テン)、クロギツネ、オオタカ、クロワシ)が明に流れ、かわりに高級な織物(緞子(どんす))が明からサハリンに流れた。
サハリンの人々(ニヴフ)はこういった豪華な品をアイヌに渡して、アイヌの産物と交換した。
アイヌはそれを本州の商人の貿易に使ったわけだ。
なるほど。だから本州の商人はアイヌの貿易を通して、中国の品を獲得しようとした。だから、北海道に商館をたくさん建てたってわけですね。
―そういうこと。
この時代の終わりに本州商人の進出がつよまると、アイヌのリーダー(注:コシャマイン)による大反乱も起きている。
【9】日本各地で、幕府からの独立を目指す動きが
室町幕府の繁栄はその後も続いたんでしょうか?
―この時代の後半にかけて雲行きは怪しくなるよ。
まず、金閣を建てた将軍(注:足利義満)の息子(注:足利義持)は、すでに引退していた「父」に「太上法皇(だじょうほうおう)」という位を与える案を却下した。
えっ、そもそも「法皇(=出家した上皇)」って、もともと天皇だった人に与える位ですよね?
―だよね。
掟破りだ。
そんな希望を叶えたら朝廷からの反発も起きるし、「やりすぎ」だという声が幕府の幹部からも上がったんだ。
さらに、中国との正式な貿易もやめてしまう。
せっかく交易がさかんなのにもったいないですね。
―その後、この将軍(注:足利義持(よしもち))の次代(注:足利義量(よしかず))が早くに亡くなってしまったので、次の後継者を神様(注:石清水八幡宮)の前でのくじ引きによって選んだ結果、将軍になったのは、すでにお坊さんになっていた人物(注:足利義教(よしのり))だ。
お坊さんといってもただのお坊さんではない。
日本仏教界のトップ天台宗のリーダー(注:天台座主)だ。
すごいですね。権力ありそう。こわい。
―彼の就任した年には大きな飢饉があって、農民が起こした初の大規模な一揆(注:正長の土一揆)も起こるありさま。
独裁体制を築こうとして、ライバルを次々にやっつけていく。
その財源獲得のために中国(明)との正式な貿易を復活させているよ。
ライバルって誰ですか?
―当時、「守護」という役職が国ごとに置かれ、ひじょうに強い権力を握っていたよね。
将軍のまわりに群がった有力な「守護」たちが、自分の「家」のために行動していく傾向が強まっていたんだ。
この時代には、将軍(注:足利義教)を憎んでいた人物(注:足利持氏(もちうじ))が、鎌倉(注:鎌倉府)を拠点に「東日本独立計画」を画策。幕府に近い人物(注:関東管領の上杉憲実(のりざね))と対立したけど、結局将軍に滅ぼされてしまう(注:永享の乱)。
その後も、「関東の独立運動」(注:結城合戦(ゆうきかっせん))は鎮圧されていったけど、将軍は有力守護に暗殺されてしまった(注:赤松満祐(みつすけ)による嘉吉の変(かきつのへん))。
もうなんでもありですね…。
―いままでは将軍がいたから、かろうじて「守護」もまとまっていたわけだよね。
だけど「気候の寒冷化」もあって、京都の餓死者8万人以上ともいわれる大飢饉(注:寛正(かんしょう)の大飢饉)も勃発。
暗殺された先ほどの将軍の息子(注:足利義政(よしまさ))も、なかなか思うようにいかず、政治の世界から離れていった(注:質素な別荘(下図の慈照寺銀閣)を建て、専属アーティスト(注:同朋衆)のアドバイスを受けた)。
彼が亡くなると、将軍の跡継ぎ問題が起こったが、これに「守護」どうしの内紛が複雑に絡み合い、もはや収拾のつかない大規模な大乱へと発展してしまう。
応仁の乱ですね!
―そうそう(注:応仁・文明の乱(実際には「文明」という元号まで続くのでこうやって呼ぶ))。
「守護」たちが京都周辺でダラダラ戦っている間、地方では「代わりに支配をまかされた」守護代(しゅごだい)が、地元の勢力と混じり合って、独立勢力(注:国人(こくじん))をつくっていくようになる。
京都から地方に避難した貴族・武士たちによって、京都文化が日本各地に広まっていくのもこの時代のことだ。
「守護だろうがなんだろうが、かまわない!」(注:下剋上)の風潮も強まり、大反乱によって守護から独立する勢力まで現れた(注:山城の国一揆)。同じ頃、石川県でも、草の根運動をつづけた仏教勢力(注:蓮如(れんにょ)の本願寺派)が成長して「守護」を交替させ、自分たちのリーダーを国主にしている(注:加賀の一向一揆)。
こうなると幕府が「関東エリア」をコントロールするのも、さらに難しくなるんじゃないですか?
―その通り。
すでにこの大乱(注:応仁・文明の乱)が起きる直前に、東日本で「勢力争い」が勃発(注:享徳の乱)。
幕府はその原因をつくった鎌倉府のトップ(注:鎌倉公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ))をやっつけようと大軍を送るんだけど、結局鎌倉に軍を進めることはできず、手前の伊豆に陣地を築き「こっちが本当の鎌倉公方だ」と主張。
結局、関東地方をおさめる「鎌倉公方が2人」存在する状況となってしまう。
もうこりゃダメですね。
―こうしてこの時期には、各地で「一定のエリア」を確保し独立勢力を築いた勢力が現れたわけだ。
彼らを戦国大名というよ。しだいに自らの支配領域や家臣を「国家」と呼び,独自の法を施行するようになる。
ちなみに、この時代の末期には明応の大地震が本州中央部を襲っている。
中国から輸入された青銅貨幣を融かしてつくられた「鎌倉の大仏」が大津波で破壊され,静岡県では浜名湖が誕生,三重県の伊勢の港市である大湊(おおみなと)も壊滅的被害を受けているよ。
【10】沖縄の王国は東南アジアと日中朝をつないだ
災害はいつの時代も悲劇ですね…。
ちなみに沖縄はどんな状況ですか?
―この時代には農業が伝わり、各地に按司(あじ)という有力者が現れるようになる。
この時代を,砦(とりで)として築かれた様々な形態のグスク(城)にちなみグスク時代と呼ぶよ。
按司(あじ)はどんな支配をしていたんですか?
―按司は各地に役人(うっち)を派遣し徴税し,農耕の祭祀は姉妹(オナリ)に担当させた。その後、複数の按司を支配下に置く世の主(よのぬし)が現れ,沖縄本島の今帰仁(なきじん)の北山,浦添の中山,大里の山南の3王国が有力となり,それぞれ別個にこの時期の中頃、中国に新しくできた明の「部下」にとして認められた。
これらを合わせて「三山」の呼び,それぞれの国名は中国から与えられたものだ(「山」は島または国という意味)。
でもその後、この内の中山の王様が沖縄本島を統一し、明との朝貢貿易を実現させた。
沖縄って狭いですけど、中国と貿易するときになにか輸出するものはあったんですかね?
―東南アジアの商品を中国に流す中継貿易をおこなったんだ。
琉球王国は明への入貢回数ナンバーワンなんだよ(2位は黎朝,3位はチベット)。
琉球に来れば,日本からの日本刀,扇,漆器だけでなく,皇帝から琉球王国に授けられた品物や中国商人の品物が手に入るからだ。日本の商人は琉球から,中国の生糸や東南アジアの香辛料・香料などを入手した。
琉球から明には2隻・300人の進貢使が2年に一度派遣され,初めは泉州のち福州に入港する。一行の一部は陸路で北京の皇帝に向かい,旧暦の正月(2月)に皇帝への挨拶とともに貢物 (馬,硫黄,ヤコウガイ,タカラガイ,芭蕉布など)を献上すると,代わりに豪華な物品が与えられる。
その間,福州では決められた商人との取引が許可されたのだ。
また,琉球王国の国王が代わるたびに冊封使(さくほうし)が中国から派遣され,皇帝から正統性が認められた。
皇帝にとってみても,琉球王国が東南アジア(琉球は真南蛮(まなばん)と呼んでいました)にせっせと交易品を獲得しに行ってくくれれば,黙っていても東南アジアの産物が届けられるという好都合があった。
琉球王国はインターナショナルな国だったんですね。
―そうだね。日本とのかかわりよりも、東南アジアとのかかわりのほうが重要だ。
この時期後半の琉球王国にとっての最大の貿易相手国はタイにあった王国だ(注:アユタヤ朝)。
また、マラッカ海峡という重要地点をおさえていたイスラーム教徒の国(注:マラッカ王国)とも交易をしている。
日本にはなにか影響を与えていますか?
―このころの琉球では,のちの日本で三味線(しゃみせん)に発展する三線(さんしん),紅型(びんがた)、タイや中国・福建省の醸造法に学んだとされる泡盛(あわもり)といった文化が生まれていく。
ちなみに日本への貿易は室町幕府との公式な交易だけではなく,大坂の堺や九州の博多の商人との間でも行われていた。
だから日本は中国の文化の影響を強く受けていたわけですね。
―そうだよ。
当時の中国で流行していたのは、禅宗(ぜんしゅう)の文化。お寺でお茶をたのしみつつ、水墨画の掛け軸や陶器などの「中国アート」(注:唐物(からもの))を愛好し、仏教や儒学について知識を披露し、心を整えることが一人前の大人として「かっこいい」とされたのだ(注:士大夫文化)。
この時期の後半、幕府の権威が弱体していくにつれ海賊(注:倭寇)の活動も活発化していくけど、日本人がわざわざ琉球王国を訪れ交易は続けられたんだ。
なお、この時期末には那覇を中心に交易で力をつけた王族がクーデタを起こして即位し、中央集権化を進めていくことになる(下図。尚真王)。
それだけ貿易の利益をあげていたということだ。
中国人や東南アジアの人たちのほかに、どんな人が東アジアに商売しにやって来たんでしょうか?
―ほかには、インド人や西アジアのイスラーム教徒が商売しにやって来ているよ。
ヨーロッパ人は商売しに来ないんですか?
―それはなかなかできないんだ。 アジアとの取引は地中海の東のほうの貿易センター都市(注:イスタンブール)や、エジプトのカイロという大都市でおこなわれていたんだけど、商売相手はイスラーム教徒。
キリスト教徒にとっては肩身が狭かった。
しかもオスマン帝国というイスラーム教徒を保護する国が勢力を広げると、ビジネスマンの多かったイタリアの都市の景気が悪くなっていったんだ。
イタリアはアジアとヨーロッパをつなぐ役割をしていたんですね。
―まさに「パイプ役」だね。中国とインドをつなぐ役割をしていた東南アジアに似ている。
でも、オスマン帝国の拡大によってアジアとの貿易の商売が「あがったり」になると、しだいにイタリアのビジネスマンは余ったお金を新しい「もうけ話」に使おうとした。つまり、地中海を通らず、別のルートでアジアやアフリカと貿易する方法を検討するようになったわけだ。
各国の王様は彼らのプロジェクトに賛同したんですか?
―いち早く強い国づくりに集中することができていたスペインやポルトガルは、イタリアの商人のプレゼンを聞いて、「実現したら美味しい話だ!」と飛びついた。
その結果、「アフリカを南にまわってアフリカやインドと直接貿易するルート」が開拓されたんだけど、あえてヨーロッパから西方向に船をすすめたのがイタリアのジェノヴァ生まれの船乗りだった。
彼はスペイン王のバックアップを受けることに成功し、この時代の終わりにはカリブ海の島に到達している。
ついにアメリカにたどり着いたんですね!
―彼自身は、到達地点が「インド」だと思いこんでいたんだけどね。
無理もない。
正真正銘「地図にない大陸」だったんだから。
こうしたアメリカを目指すスペインの流れに乗りそこねたのが、イタリアの北方にある王様の国々だ。
これらの国々は、キリスト教の教会に対抗して強い国をつくろうと、国づくりを整え、銃や大砲といった新兵器を導入してのし上がっていった。
その代表格はフランスやイギリスだ。
対するキリスト教の教会も、本部のローマを中心に負けじと支配を整え「教皇を中心とする国」を整備していった。ヨーロッパ全体をキリスト教という”正義”によってコントロールしようとしていく。
でも結局は、ヨーロッパ各地で王様の国が強くなっていくと、次第に実力を失っていくことになるよ。
次第に周りの国々も、「自分の国の利益」という現実的な事柄を大切にするようになっていったんだ。
文化も、キリスト教の「縛り」から自由な、より人間中心的な文化へとシフトしていくよ。
次の時代にかけて、ヨーロッパの人々はぐんぐん世界の知識を拡大し、技術を発達させていく。
でも経済的には次の時代になってもアジアのほうが断然「上」。
貧しいヨーロッパが豊かなアジアの商品を求めてやって来るようになるよ。おのずと日本もその影響を受けることになる。(つづく)
今回の3冊セレクト
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊