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8.1.2 アメリカ大陸の征服 世界史の教科書を最初から最後まで

ポルトガル王国がアジアとの直接貿易に成功する直前、1492年にイベリア半島のイスラーム政権を滅ぼしたスペイン王国では、女王イサベル(在位1474〜1504年)が主導して、アジアとの直接貿易プロジェクトに乗り出した。

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そこに「資金を提供してくれるなら...」と歩みよったのが、イタリアのジェノヴァ商人コロンブス(1451〜1506年、スペイン語では「コロン」)。女王イザベルと同い年だ。


ジェノヴァといえば、1453年にコンスタンティノープルをオスマン帝国

に奪われてからというもの、治安悪化で不振となっていた。

地中海東部の貿易の不振になやむコロンブスは、当時最新の知見である「地球はボールのようにまあるい形をしているから、大西洋を西に進めば、ポルトガルを避けて一気にヒョイっとアジアに到達できる」という説に飛びついた。

この地球球体説はフィレンツェの天文学者トスカネリ(1397〜1482年)の計算したもの。

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(出典:ピーター・ヒューム(岩尾龍太郎ほか訳)『征服の修辞学―ヨーロッパとカリブ海先住民、1492‐1797年』法政大学出版局、1995年、32頁)

イサベルに猛アピールの末、スペインから「インド航路」開拓の受注を受けたコロンブス。


インド」(スペイン語ではインディアス)というのは、当時のヨーロッパ人が「南アジア・東南アジア・東アジア」をざっくり指すときの呼び名だ。
もし「インド」に到達できれば、彼はその総督に就任し、富の一部を得ることができるという契約だった。


そして迎えた1492年。
コロンブスはカリブ海の小島に到達し、サンサルバドル島と命名した(実は現在のカリブ海に浮かぶバハマという国の小島)。



現地の人々(タイノ人)は彼から見れば、どう考えても ”野蛮人“。
身振り手振りで情報を探るなかで、ここが前人未到の「インド」近くの島々ではないかと確信する。



島の「インド人」(スペイン語でインディオ)を武力で制圧したコロンブスは、彼らの一部を奴隷としてスペイン王に献上。
その証拠を見た王室は、コロンブスに支配の権限を渡したけれど、利権をめぐる争いが勃発した。
その後もコロンブスは合計4回航海し、「インド」と思われる広大な大陸にも上陸した。
カリブ海の島々で大農園の経営も始めているよ。



もちろん、現在のわれわれなら「そこはインドじゃないよ。アメリカ大陸だよ」ってツッコミを入れたくなるよね(笑)


でも、コロンブスが信じていたトスカネリの地図には、「アメリカ大陸」の表示なんてない。

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右端にヨーロッパとアフリカ、左の方に「CIPPANGU」(ジパング。日本?)や「CATHAY」(中国)が見える。


かつて、北欧のヴァイキングの一派が現在のカナダに到達していたことがわかっているけど、それは過去の話。そんな大陸があるなんて、当時のヨーロッパ人にとってはまったくの想定外だった。


しかし、コロンブスの存命中に、ポルトガル人のカブラル(1460年頃〜1526年)がアクシデントに見舞われ、現在のブラジルに漂着。




実際のインドにも言ったことがあるカブラルにとって、ブラジルの景色も人も様子は「インド」とは似ても似つかないものだった。


ブラジルがどのような植民地だったのかを知るには、パリ国立図書館所蔵の「ミレール地図帳」を見るのがよいだろう。先住民たちが木を伐採し、丸太を積み出していることがわかるだろう。ポルトガル人は、アメリカ大陸にはなかった鉄製の斧を先住民にわたし、それで赤色染料の原料となるパウ・ブラジル(別名ブラジルボク、これがブラジルの国名のルーツである)を沿岸に持ってこさせたのである。

なお、上部のアマゾン川河口と下のラプラタ川河口にポルトガル旗があるのは、その旗をむすぶ線の右側をポルトガル領と主張するためのものだ。

史料 ロポ・オーメン「ブラジル地図」(「ミレール地図帳」所収、1519年)
「おの地には、色とりどりのオウム、その他数多くの鳥、怪獣のような野獣、多くの種類の猿が生息しているほか、ブラジルと呼ばれる木が自生しており、それは衣服を赤色に染めるのに適している。」(歴史学研究会編『世界史史料7』岩波書店、2008年(オンデマンド版、105頁))


「コロンブスは本当に「インド」に到達したのか?」という疑問が生まれてもおかしくないよね。


謎が深まる中、イタリア出身のアメリゴ=ヴェスプッチ(1454〜1512年)という人物が調査した結果、「コロンブスが「インド」だと言っていた場所は、アジアのインドじゃない。まったくあたらしい世界(新世界)なんじゃないか」という報告書を発表。

つまりヨーロッパ人”にとっての“新大陸の存在を匂わせたのだ。新大陸が「アメリカ」と呼ばれるのは、このアメリゴの名がルーツなんだよ。



そうなると、これまでの常識を根本的にくつがえす必要がでてくる。

これまでのヨーロッパ人の常識では、《アジア+アフリカ+ヨーロッパ=世界》だ。


アジア(インド)とヨーロッパの間にアメリカがあるんならば、じゃあ「アジア(インド)とアメリカの間には、何があるんだ」ということになるよね。


情報の錯綜するなか、スペイン王室はポルトガル出身のマゼラン(1480年頃〜1521年、ポルトガル語名はマガリャンイス)に、西回りでアメリカ南端を突破するよう命じた。
ポルトガル人を起用しているのは「変だな」と思うかもしれないけど、もうかる出世話があれば飛びつくのは当たり前の話。



マゼランが通った南アメリカ南端近くの海峡のことは、現在ではマゼラン海峡という。
彼が目指したのは、アジアの香料諸島モルッカ諸島)。



コロンブスも到達できなかったこのスパイスの大産地に到達するまで、大陸のない海洋を数ヶ月にわたって航海し続けたその強靭なメンタルには、驚かされるね。

彼はこの巨大な海域は「おだやかな海」(オセアノ=パシフィコ)と命名。
日本名は「太平洋」だ。


しかし、ようやく到達したフィリピンの小島で、島民の抵抗に合い、島民同士の争いの中でラプラプという王に殺害される。
フィリピンの歴史の中では、船を率いて乗り込んだマゼランはほかでもない”侵略者“。
フィリピンのマクタン島では、今でもマゼランの来航と戦死をモチーフにした記念式典が毎年ひらかれているんだ。


さて、マゼランの部下たちはそのまま世界一周を決行。ポルトガル船による攻撃を避けながら、1522年にスペインに帰国。
航海日誌の日付のズレから、本当に世界を一周したのだということが証明された。



さて、アメリカ大陸の人々にとって、こうしたスペイン人の海上進出はどのように見えるだろうか?


1521年にスペイン王室が送った征服者(コンキスタドール)のコルテス(1485〜1547年)は、メキシコ一帯を支配していたアステカ王国を滅ぼし、征服に成功。アステカ王国の都テノチティトランに、新都メキシコシティを建設した。

次の文章は、コルテスがアステカ王国の国王モクテスマに会見したときのことについて記録した書簡の一部だ。

史料 エルナン・コルテス『コルテス報告書簡』
[前略]この橋を渡りますと、かの首長ムステマ[筆者注:アステカ王国の王モクテスマのこと]が、200人の首長たちとともにわれわれを出迎えに来ました。首長たちはみな素足で、彼らの風習に従い、先の者たちとは別のさらに豪奢な盛装で、街路の両側の壁寄りに二列になってやって来ました。街路は広々としてとても美しく、また真直ぐですので、通りの長さは3分の2レグアありますが、端から端まで見通すことができます。そして両側には住宅や寺院(メスキータ)など、まことにすばらしく壮大な建物があります。ムステマは、右手にひとり左手にひとりと、首長を2人従えて、街路の真中をやって来ました。
[中略(筆者注:その後、ムステマの父のアシャヤカトル王の宮殿に移動して)]
ムステマのコルテスに対する最初の弁
「私たちは昔から、祖先の記録(エスクリトゥーラ)により、この地に住む者は私をはじめみな元来この土地の者ではなく、異邦人であり、はるか遠くの地方から来た者であるということをよく承知しています。また、私たちの祖先は、ひとりの首長(みな彼の臣下でした)に率いられて当地へ来たが、首長は生地へ帰ったということも知っています。長い年月を経て首長はふたたび当地へやって来ましたが、それがあまりにも長い年月を経た後のことであったため、当地に残った者たちはすでに土地の女をめとり、子孫を増やし、立派な町々を築いて生活していました。首長は、彼らを連れて帰ろうとしましたが、彼らは立ち去りました。そこで、私たちはいつも、彼の子孫がこの地を征服し、私たちを家来にするためにやって来るに違いない、と信じてきました。あなた[筆者注:コルテスのこと]が言われるには、あなたは太陽の昇る方向[筆者注:つまりスペイン王国]から来られたとのこと、またあなたを当地に派遣された大君主である国王についてあなたが申されることども、ことにその方がかねてより私たちのことをご存知である由を承り、私たちはその方こそ私たちの本来の主君であることを信じて、疑いません。それゆえ私たちは、あなたの言われる大君主の代理者であるあなたに服従し、あなたを首長として仰ぐ所存です。これに背いたり、偽ったりはいたしません。全土にわたって、つまり私の支配地においては、あなたの意のままにご下命なされて結構です。[後略]

出典:エルナン・コルテス(伊藤昌輝・訳)『コルテス報告書簡』法政大学出版局、2015年、102-105頁。太字は筆者注。


コルテスの報告によれば、アステカ王国の王モクテスマは、上のように発言したのだという。
コルテスの発言を真に受ければ、アステカの王は、古代の神話に出てくる「首長」こそがコルテスに違いないと思い込んでしまった、愚かな君主ということになるだろう。
それに加えて、アステカの人々の間には、「ケツァルコアトル」という神がいつか再来するという信仰があり、その顔が白いとつたえられていたことから、白人のコルテスを「ケツァルコアトル」と誤認した、だからいとも簡単にコルテスに負けたのだという説明も、けっこう流布されている。

だが、そもそもこの史料は征服者コルテス自身の残したものである。
眉に唾をつけて読み解く必要があるのは当然だろう。
じっさいコルテスの説明には、アステカの始祖伝説には記されていない内容が含まれている。
「白い神」の伝説も含め、スペインの征服者の見方が反映されているとみるべきだ(参考:エルナン・コルテス(伊藤昌輝・訳)『コルテス報告書簡』法政大学出版局、2015年、107頁)。


アステカ王国が滅んだ10数年後、スペインの征服の手は、今度は南アメリカにも及んでいる。
1533年には征服者のピサロ(1470年頃〜1541年)が、ペルーのクスコを破壊。インカ帝国を滅ぼし、新たにペルーに首都リマを建設したのだ。



アメリカ大陸の先住民には、歴史的にを製造するテクノロジーはなく、車輪も実用化せず人力を重んじた。馬や牛のような大型家畜が分布していなかったのだ。

それに対しスペイン人は銃や大砲を装備しており、軍事的には歯が立たない。
さらにアメリカ大陸にはなかったタイプの感染症にかかってしまったことが、致命傷となったのだ。



スペイン王室は当初は軍事力として、国内であぶれていた人々を「征服者」として送り込んだ。直接支配するだけの資金力があるわけでもないから、植民者たちに先住民や土地を支配する権限をあたえることにしたのだ。

でもそれには条件がある。アメリカ大陸に住んでいる人々は”いちおう人間“なのだから、ちゃんと保護し、キリスト教を布教させなきゃだめだよということにしたのだ。

でも、その実態はとっても過酷。
凄惨な現場を見かねた聖職者ラス=カサス(1474/84〜1566年)は「先住民も人間なのだから、人間扱いするべきだ」とスペイン王に申し立てる事態に発展。

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ラス・カサスの肖像
出典:ラス・カサス(染田秀藤・訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫、2013年(原書初版1552年)、38頁。


出典:ラス・カサス(染田秀藤・訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫、2013年(原書初版1552年)、39頁。

史料 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

「キリスト教徒はインディオの領主や貴人を殺すのに、よく次のような手口を用いた。つまり、彼らは木の叉に、小枝や枝を編んで作った鉄網のようなものを載せ、それに彼らを縛りつけ、網の下からとろ火で炙ったのである。すると、領主たちは苦痛に耐えかねて悲鳴をあげ、絶望のうちに息絶えた[筆者注:上記の上から2つ目の版画]。
 一度、私自身、有力なインディオの領主が4、5人、そうして火あぶりにされているのを目撃した(ほかにも鉄網のようなものが2、3組あり、そこでも、インディオが火あぶりにされていたと思う)。領主たちが非常に大きな悲鳴をあげたので、隊長(カピタン)は哀れに思ったのか、いずれにせよ、火あぶりをやめて絞首刑に処すように命じた。[後略]」

出典:ラス・カサス(染田秀藤・訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫、2013年(原書初版1552年)、39頁。



スペイン王も「征服者からアメリカの利権をとりかえしたい」と考えていた。そこで次第にスペイン王室はアメリカ大陸の直接コントロールに乗り出すようになるよ。

でもそんな中、多くの先住民は鉱山や農園での労働力としてひどい働き方をさせられた挙句、ユーラシア大陸の感染症にかかり、ばたばたと倒れていくこととなった。


”ヨーロッパ人の大冒険“とされることが多い「大航海時代」は、アメリカ大陸の先住民にとっては、“大侵略時代”といえるかもしれない。
その後の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカにおいて、「コロンブスをどう見るか?」という問題は、現代においてもナイーブな問題であり続けているのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊