14.3.5 東南アジアにおける民族運動の展開 世界史の教科書を最初から最後まで
東南アジアにおいても、第一次世界大戦でヨーロッパの強国どうしが破局的な戦争で自滅する光景を前にして、民族運動がふたたび盛り上がった。
◯インドネシア
オランダ王国が支配するインドネシアでは、1920年にインドネシア共産党が結成され、独立をとなえた。サポートしたのは「世界中で社会主義革命を起こそう!」と活動した、ソヴィエト=ロシアの第3インターナショナル(コミンテルン)だ。
その運動が植民地当局によって弾圧されほぼ壊滅されると、オランダ王国での留学から帰国した知識人たちが、運動を指導するようになった。
その一人が、1927年にインドネシア国民党を組織し、その党首となったスカルノ(1901〜1970年)だ。インドネシア国民党は「「インドネシア国民」としてまとまることで、将来的な独立をめざそう!」としたんだ。
でも、大きな問題が立ちはだかった。
何がインドネシアで、誰がインドネシア人なのかも定かではなかったからだ。
それもそのはず、「インドネシア」の境界はオランダとイギリスの取り決めによってきまった(1824年英蘭協定)ものにすぎない。
歴史的に現在のインドネシアの国境にもっとも近いマジャパヒト王国(王様はジャワ東部にいた)でさえ、現在のマレーシア、シンガポールや、フィリピン南部にまで影響力があったのだからね(【←戻る】4.3.2 東南アジアの交易とイスラーム化)。
とはいえ、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で指摘したように、植民地における役人は植民地全土で任地に付き、植民地全体で読まれるような新聞・雑誌・本といった出版メディアも生まれていたから、しだいに「自分たちはインドネシア人なんじゃないか」というモヤモヤっとしたまとまりのようなものは育まれつつあった。
インドネシア国民党によって、1928年には「インドネシア」という国家のもと、オランダの植民地はまとまるべきだという目標が打ち出された。
しかし、1万以上もの島々が点在し、500以上もの言語をもつ人々が分布するようなダイバーシティあふれるエリアを、ひとつの「インドネシア」という祖国のもと、「インドネシア人」という民族、「インドネシア語」という言語のもとにまとめようというのだから大変だ。
東南アジアではこのように、植民地からの独立を通して「国民の国家」をまとめようという動きが進められていくことになるよ。
◯インドシナ(現在のカンボジア、ラオス、ベトナム周辺)
現在のカンボジア、ラオス、ベトナムがある半島を、「インドシナ半島」という。
フランスの支配するインドシナ半島(フランス領インドシナ)では、阮朝(げんちょう)の国王はそのまま残され、フランスの支配にうまーく利用されていた。
そんな中、1925年にホー=チ=ミン(1890〜1969年)がベトナム青年革命同志会を結成。
それを母体に、1930年にベトナム共産党(同年10月にインドシナ共産党に改称)が成立した。
ホー=チ=ミンは現在のベトナムのすべての紙幣の顔になっている人物だ。
インドシナ共産党は、徹底的に弾圧されつつも、村々にロシアを見習って「ソヴィエト政権」を建てるなどの農民運動を展開していくよ。
なお、カンボジア、
ラオスでも支配者はそのまま残され、フランスの操り人形(傀儡)状態となっていた。
◯ビルマ(ミャンマー)
ビルマは、1886年に「インド帝国」の一つの州を構成することになっていた。
しかし、第一次世界大戦と「民族自決」の国際的な動きに刺激され、1920年代から民族運動がスタート。
推進したのは主に上座仏教(じょうざぶっきょう。日本と違い、悟りのために僧侶の個人的修行を重んじる)のお坊さんや、タキン党と呼ばれる急進的な民族主義者たちだった。
タキンとは「ビルマの主人」という意味。
ビルマ地域には、ビルマ人以外にもさまざまな民族が分布していたが、なかでも「ビルマ人がビルマの主人になるべきだ」という思想に基づいている。
敬虔(けいけん)な仏教徒の多いビルマでは、現在でもお坊さんの政治に対する影響力の強いところだ。
ただ、インドの東隣に位置し「インド帝国」の一部であること、自治・独立は前途多難。イギリスは支配の過程で、タキン党の主体だったビルマ人に対抗するため、ビルマのさまざまな民族(シャン人、カヤー人、カチン人)に対して、差を付ける待遇を行った(分割統治)。
シャン人
カヤー人
カチン人
このことが、のちのち深刻な民族問題を生み出すことになる。
◯フィリピン
アメリカ合衆国がスペインに代わって支配していたフィリピンでは、1907年に議会が解説。
立法や行政の分野ではフィリピン人への権限委譲がすすめられた。
しかし、経済面においてはアメリカ合衆国に大きく依存した商品作物の生産がすすめられていく(日本からの移民の渡航先ともあった)。
そのため、住民たちは低賃金での厳しい労働に従事することとなり、反乱を繰り返してアメリカ合衆国当局を悩ませることに。
その後、アメリカ合衆国が1929年のニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌によって打撃を受けたこともあって、1934年にはフィリピン独立法が成立。
1935年には「独立準備政府」が発足するけれど、その後、太平洋戦争の勃発に翻弄(ほんろう)されることとなる。
◯タイ
タイのバンコク(ラタナコーシン)朝では、国王による上座仏教の権威を傘にする絶対的な支配が続いていた。
戴冠式のときのラーマ7世
しかしながら、財政的な混乱や、国を王族が支配していることへの批判も強まり、1932年に「憲法をつくるべきだ」という革命が勃発。
憲法に署名し、絶対君主から立憲君主になるラーマ7世
憲法が制定され、立憲君主制となった。
スーツを見にまとい、別人のようになったラーマ7世
このように東南アジアでは民族運動が起きる中、1941年末からは太平洋戦争にまきこまれに、その多くが日本軍に侵攻されることとなる。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊