"世界史のなかの"日本史のまとめ 第6話 西日本への稲作の広がり(前800年~前600年)
Q. 稲作文化はどのように広がっていったのだろうか? ①
―伝説の上では、この時期に「初代の天皇」が即位したとされる。
神武天皇(明治時代の版画、wikimediaより)
いつのことですか?
―前660年ってことになっているんだけど、後世の支配層が神話をまとめていく段階で、この年代に落ち着いたと考えられている。
この天皇は、さらに昔、現在の宮崎県に降り立った天上世界の神様(注:ニニギノミコト)の曾孫(ひ孫)とされている。この神様は、さらに昔にさかのぼると「太陽神(注:アマテラスオオミカミ)の孫」という設定になっている。
洞窟に隠れてしまった太陽の女神を、外に出そうとする神様たちの神話。
もちろんこれは神話ではあるけれど、宮崎県の高千穂(たかちほ)というところにゆかりがあることから、当時の北九州地方にはすでに後につながる有力者がいたとも考えられる。
すでに縄文時代の終わり頃、現在の福岡県では大きな農耕集落(注:板付遺跡)も見られていたよね。
同じ頃世界では?
―南北アメリカ大陸ではトウモロコシやジャガイモの農業によって、都市文明もうまれている。
一方、ユーラシア大陸の乾燥草原地帯では、遊牧民が武器をもって馬にまたがり、広い範囲を支配する国をつくりはじめている。
もっとも強かったのは、ヨーロッパや西アジアのお隣さんに位置するスキタイという人たちが束ねる集団だ。
各地の草原にはこういうグループがいくつもできて、言葉や文化の違いも生まれていく。
日本には遊牧民の影響はあったんでしょうか?
―草原地帯は日本海沿岸にまでつながっていなかったから、そのおかげで日本にまで直接攻めてくることはなかった。
薄いオレンジが乾燥草原地帯(ステップ)。
でも、お隣の中国では、北方モンゴル高原や、西方に広がる乾燥草原地帯から遊牧民が移動して来たこともあって、農耕民の建てた都市文明が少なからず影響を受けている。
その影響を受け、朝鮮半島や日本方面に移住する人々もあったようだ。
「渡来人」ってやつですね。
―そうそう。
すでに前の時代から断続的に日本への移住があったようだ。
日本に伝わったお米は細長いインディカ米のような熱帯品種ではなく、粘り気の強い温帯品種(ジャポニカ米)であることから、日本への稲作伝来ルートは長江から北上し、山東半島や遼東半島を経由して朝鮮半島に向かうものではなかったかと考えられている。
じゃあ、九州が当時の最先端の文化エリアだったってことですか。
―まあ、稲作技術っていう点では最先端だね。
しだいに新しい技術を受け入れ、強力なリーダーも現れるようになるよ。
有力なリーダーの中には、九州と朝鮮をまたにかける者もいた。
そもそもどっからが日本で、どっからが朝鮮という意識すらまだない。
当時の中国はどういう状況だったんですか?
―中国では北方の黄河流域では周という王国が広い範囲を支配している。
でも中国の南のほうは、長江文明という別のルーツを持つ人々が国をつくっていたんだけど、この頃になると周の支配を受けるようになっているよ。
でも王様の位をめぐって仲間割れが起きたり、西の方からは遊牧民の攻撃も受けるようになっている。
どうして遊牧民の攻撃を受けるようになったんですか?
―人口増加に対応して、高原地帯(注:黄土高原)の森林が伐採されていった。それで、西のほうの遊牧民と出くわすことも多くなったんだ。
西方にいたチャン人は、いまでも中国の四川省に暮らしている。
黄土高原はこんな風景。
黄河の上流エリアには、西の砂漠地帯から風に舞って黄色い土が降り積もっている。農業には適する細かい砂や粘土(注:風成レス)なんだけど、それで川の色が変わってしまうくらい、木が切り倒されたってわけだ。
それで、中国の黄河流域の王様はどうなったんですか?
―王様は西に王宮を移すことになったけど、この頃から王様の権威は落ちていく。
家来たちは国王をみんなでお守するふりをして、実際には家来の中で一番上の位につこうとして争うようになっていくよ。特に長江流域の楚(そ)という国は、自分がトップになろうとして何度も他の家来の国と戦争を起こすようになる。
周の王様は、しだいに「有って無いようなもの」になっていくんだ。
この周という国が、のちのちの中国のルーツになっていくんですか?
―後世に大きな影響を与えたのは事実だけど、中国には南の大河(長江)流域にも、いくつもの文明が栄えていた。
巴蜀(はしょく)、荊楚(けいそ)、呉越(ごえつ)だ。
巴蜀文化のひとつ「三星堆遺跡」(さんせいたいいせき)には特徴的な青銅製のお面が見つかっている。
聞き慣れないですね。
―中国の歴史は、北の王朝中心の書かれ方をしているからね。
でも実際には、南中国の文明も、その後の中国の「キャラ」づくりに大きな影響を与えているんだ。
その証拠に、現在でも南中国の言葉は、北中国とは違うよね。
今でも南北で大きな差が残っているんだ。
そもそも、王による支配が進んでいったのはなぜでしょうか?
―いちばんの理由はやはり農業や牧畜の技術の発達だ。
日本列島にはユーラシア大陸のような大きな河川がないけれど、平野部の森林を開拓しながら、農地を増やしていったとみられる。
すべての場所で水田をつくるのは難しかったから、場所によっては乾田(注:水を張らない稲の畑)で焼畑農耕で栽培されていた。
焼畑農耕って、熱帯でやる農業ですよね?
―そうそう。
日本の農業には中国や東南アジア方面にルーツがあるんじゃないかという研究も多い(注:これや、それに対する批判のこれ)けれど、現状では明確な答えは出ていない。
で、この時代には北九州だけでなく、高知県、さらに山陰地方(現在の山口県や島根県、鳥取県の地方)や瀬戸内海でも稲作技術が導入され、農業にもとづく社会が生まれている。
第183集(藤尾慎一郎「西日本の弥生稲作開始年代」『国立歴史民俗博物館研究報告』183、国立歴史民俗博物館、2014年)を参照。
大阪の平野部に伝わったのもこの時代だ(注1)。
当時の大阪湾には大きな湾があったが、川の運ぶ土砂により「湾」はしだいに「湖」のようになっていた。要するにグチャグチャの状態であったのだ。
だけど、稲作文化はまだ伊勢湾や愛知県にまではとどいていない(注2)。
(注1)小林謙一・春成秀爾・坂本稔・秋山浩三「河内地域における弥生前期の炭素14年代測定研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第139集、国立歴史民俗博物館、2008年を参照。
(注2)石黒立人「伊勢湾周辺地域における弥生大規模集落と地域社会」第149集、国立歴史民俗博物館、2008年を参照。
どうしてそこから東には広まらなかったんでしょう?
―どうしてだろうね。
愛知県よりも東では、「縄文文化」の影響がまだまだ残っている。
西日本の照葉樹林エリアと、東日本のナラ林エリアとの境目と見ることができるかもしれない。
北海道はどうなっていますか?
―そうそう忘れちゃいけないよね。
北海道では稲作は伝わらず、「縄文文化」の特徴が続けられている。
沖縄は? 大陸に近いから稲作が伝わってそうですが。
―稲作は伝わらずに、魚釣りや採集の文化が営まれているよ。「海の幸」が豊富だからね。サンゴ礁の浅瀬で魚を採って暮らし、ゴホウラとかイモガイといった貝はさかんに北九州に輸出され、そこから米や鉄器を得たようだ。
貝(上図:ゴホウラ)は腕輪(下図:筑紫野市HP)に加工され、北九州の有力者の墓からも見つかっている。
沖縄タイムス(人骨の左手首に装着されたゴホウラ貝輪=伊江村川平の「ナガラ原第三貝塚」(伊江村教委提供))より
今回の3冊セレクト
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