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伝説の“猪木問答”で、棚橋選手がアントニオ猪木さんに本当に言いたかったこと

現在、難病との闘いを続けているアントニオ猪木氏。40代後半という人生の転機で著した初の自己啓発書、『最後に勝つ負け方を知っておけ。』が青春文庫から復刊されます。それにあたり、“100年に一人の逸材”、新日本プロレスの棚橋弘至選手が青春出版社に来訪し、取材に応じてくれました。「アントニオ猪木」という存在に対するさまざまな思いについて、本書にも掲載されている棚橋選手へのインタビューから抜粋してお届けします。

今だからわかる猪木さんの気持ち

僕は怒ってました。心底怒ってました。誰に対して怒ってたのか──猪木さん、あなたに対してです。
 
いまから20年前の2002年2月1日、札幌大会で全試合が終わった直後のこと。当時、新日本プロレスのオーナーだった猪木さんは、再びリングに上げられた主力選手たちに向かって、一人ずつ「オメーは怒っているか!?」と問い質しました。

通称“猪木問答”と呼ばれる出来事です。まだデビューして2年あまりの若造だった僕も、大勢の観客が注目する中、リングに上げてもらっていました。

当時、総合格闘技人気が高まっていて、新日本プロレスも格闘技路線を走り始め、反発した選手が離脱するなど、団体が迷走している時代でした。

本来はプロレス側にいるはずの猪木さんが、格闘技イベントのプロデューサーに就いてプロレスラーを引っ張り出したり、プロレスはだらしないぞ的なメッセージを発したりしている。

「プロレスラーよ、もっとしっかりしろよ」と檄を飛ばしたかったんでしょうけど、明らかにマイナスに作用していた。

だから、僕の中での答えは「あなたに対して怒ってます!」だったんです。

……だったんですが、一若手レスラーがそんなこと言えるはずがないし、質問にまともに答えたら負けだなとも思っていたので、僕は猪木さんをにらみ返しながら、「僕は新日本のリングでプロレスをやります!」って言い返したんです。答えになってないですね(笑)。

でも、本当に猪木さんに対して怒ってたんです。

あれから20年たって、猪木さんの立場もよくわかるようになりました。“プロレスこそ最強の格闘技”とぶち上げていた猪木さんにとって避けて通れない道だったのだろうと思います。それに何より、いまとなってはあの出来事は感謝しか感じていない自分がいます。

というのも、あそこで猪木さんに問い質されたことで、棚橋弘至というプロレスラーの輪郭がはっきりとできあがったからです。あそこで宣言したことをずっと貫いてきたからこそ、いまの僕があるんです。

僕こそが“猪木イズム”を最も継承している

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この本、もともとは猪木さんが47歳の時に書いたものらしいですね。僕はいま45歳。当時の猪木さんの年齢に近づこうとしています。

当時の猪木さんの年齢に近づいた僕にとって、あらためて猪木さんとはどんな存在か。間違いなく「恩人」ですね。この20年の間には猪木さんへの反発もあったけど、結局、それも猪木さんがいるからこその話。

猪木さんが太陽のように中心にあるから、いろいろなことが起こって盛り上がる。太陽がなかったら、そのまわりは回れないわけですから。

大きなくくりで言えば、プロレスというジャンルを広めてくれて、僕がプロレス好きになって、プロレスラーになって……ということを考えると、ほんとにもう、根幹をただせば、猪木さんのおかげでいまの僕がいる。

そういう意味で、猪木さんに関わった人、プロレス好きになった人っていうのは、みんな恩義を感じてるんじゃないかな。

あえてアントニオ猪木の生き方に異を唱えるとしたら、誰も猪木さんを超えられなかったこと。超えさせなかったこと。それをできる人材がいなかったということでもあるのですが。でもまあ、いないでしょ、あれだけのキャラクターを超せる人は(笑)。

それが、僕が考えるアントニオ猪木の功罪の唯一の罪の部分かなって。プロレスラーとしてのスタイルなどから、僕は反猪木派だと思われてきたところがあるけれど、僕こそが猪木イズムを継承してきたド真ん中の人間です。

そもそも、僕の名前の「弘至」は、猪木さんの本名「猪木寛至」から「至」の字をいただいたって話を、あとになって猪木ファンだった父から聞いた。そりゃもう運命決まってたんじゃん、と(笑)。

だから、僕もこの本で猪木さんがその極意を書いているように、どんなに負けようが、苦しい思いをしようが、「最後に勝てばいい」。そんな猪木さんの生き方を手本に、まだまだ現役レスラーとしてもうひと花、ふた花咲かせたいと思っています。

20年前にちゃんと答えられなかった“猪木問答”、いまなら迷わずハッキリ答えられます。

怒ってます。猪木さんの、「誰も超えさせない、その大きすぎる存在に対して」

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棚橋弘至 1976年、岐阜県大垣市生まれ。立命館大学法学部卒業。大学時代はアマチュアレスリング、ウエイトトレーニングに励み、1999年、新日本プロレスに入門。同年10月10日、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年には初代U-30無差別級王者となり、その後11度の防衛に成功。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して同タイトルを初戴冠、第45代王座に輝く。日本人離れした肉体で、団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座に何度も君臨。第56代IWGPヘビー級王者時代には当時の連続最多防衛記録である“V11”を達成した。『G1 CLIMAX』3度制覇(07年、15年、18年)。『NEW JAPAN CUP』2度制覇(05年、08年)。プロレス大賞MVPは09年、11年、14年、18年と4度受賞。得意技はハイフライフロー、テキサスクローバーホールド、スリングブレイド、ドラゴン・スープレックスなど。キャッチコピーは「100年に一人の逸材」「エース」。