英雄を謳うまい

【著書紹介(出版社Webより)】
初めて活字になった短篇『怒りの季節』など来るべき作品世界を暗示する習作群、単行本未収録の詩、自作を語るエッセイ、死を目前にした最後の散文。作家カーヴァーの起点と終着点を結ぶ作品集。


1. 訳者解題より、本選集のタイトルの意味について。

原題は“No Heroics,Please”。訳者はこれを『英雄詩はお呼びじゃない』とした方がコミカルな効果が出るかもしれないと書いている。なるほど。
カーヴァーは人生のある時点で英雄たちの物語に別れを告げ、そのへんにいる人たちのために、そのへんにいる人たちの物語を書こうと決意した。
このような反エリーティズム的な観点からして『ソーダ・クラッカーズ』という詩が好きだと訳者は言うが、僕(=誠心)も同感だった。


ソーダ・クラッカーズ

君たち、ソーダ・クラッカー! 僕は覚えている。
雨の中をここにたどりついたときのことを。
ひとりぼっちで、沈みこんで。
僕らはこの家の孤独さと静けさを
ともに分かちあったじゃないか。
手の指先から足のつまさきまで
僕は疑念にとり憑かれていた。
そして僕は君たちをセロファンの
包装紙から取りだして、キッチンの
テーブルでものおもいに耽りながら
ぼりぼりと食べた。
その最初の夜はチーズと、それから
マッシュルーム・スープとともに。そして今
きっちり一ヵ月が過ぎても、
僕らの重要な部分はまだ
ここにある。僕は健在。
そして君たちは-僕は君たちのことも誇りに思っているぜ。
君たちはこうして活字になって語られようとさえ
しているんだ! ソーダ・クラッカーたるもの
それくらいの幸運に恵まれるべきだね。
僕らは僕らなりに、なんとかうまく
やってきた。なあ、いいかい。
ソーダ・クラッカーについて自分が
なにかを書けるなんて、僕は
考えたこともなかった。
でもね、そうなんだよ。
からりと晴れ上がった日々がここにやっと
訪れたのだ。


2. 「自作を語る」より、『ドストエフスキー』のシナリオについて

ドストエフスキーの人生についての映画の脚本を書かないかとカーヴァーにオファーがきたとき、伴侶であるテス・ギャラガーは、2人の生活がやっかいになってきたときにこんな依頼がきて…と嘆いていたが、実の父のガンとの闘いに敗れつつある失意に負けないよう仕事に打ち込んでいった。
「ドストエフスキーよ!私たちは彼を生き返らせているのよ!」と。そして、「ドストエフスキーはいろんな意味で私に勇気を与えてくれる」と。
カーヴァーの死後も、彼の著作に関しての編集に携わったテスだが、このドストエフスキーのシナリオづくりについても2人の共同作業が目に浮かぶようでとてもよかった。
カーヴァーの物語やエッセイには、仕事に打ち込むことで心にあいた穴を埋めていこうとする営みがしばしば見受けられる。3回も読み直してしまった。
「ファイアズ(炎)」も良かった(別の著作)。また、読み返したい。


3. 「自作を語る」より、『ぼくが電話をかけている場所』について
(以下、P221の9行目~P222までをそのまま転載)
 作家にとっても読者にとっても同じことだが、もし運が良ければ、我々は一篇の短篇小説を書き終え、あるいは読み終え、そこでしばしのあいだ静かに佇むことになるだろう。理想を言うならば、我々ばそこで何をするともなく、自分がたった今書き上げたり読んだりしたものに対して、深く思いを巡らせることになる。あるいは我々の心なり知性なりは、もといた場所から一目盛りくらいは移動させられているかもしれない。我々の体温はわずかなりとも高くなったかもしれない。あるいは低くなったかもしれない。それから我々は、作家にせよ読者にせよ、もう一度静かにしっかり呼吸をして、普段の自分に戻っていくだろう。立ち上がり、チェーホフの登場人物の言葉を借りれば「暖かい血と神経からなる身体で」次なる営みに移るだろう。生きることだ。それは常に生きることなのだ。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?