キャッチャー・イン・ザ・ライ

書影

17歳のホールデン・コールフィールド少年の物語。
(3年ほど前に一度よんで、今回は再読)

17歳でここまで鋭く観察できるものなのか!というのは、あるいは野暮な感想かもしれない。もっといえばホールデンの妹のフィービーも、なお鋭い。

ホールデン君は、常に揺れているように見えるし、100万回ぐらい後悔をしている、ほんとの話。ただ、そこには一貫性も感じられるし、いってしまえば基本的にはホールデン君の感覚に僕は全面的に共感した。40歳の僕が、だ。

前回のnoteにも書いたように、サリンジャーとしては本作の次作である「フラニーとズーイ」をつい一昨日よみ終えたところ(なので、このキャッチャーは1日半ぐらいで読み終えてしまった)で、その残像というか、いろいろとクロスするところがあった。

本作(キャッチャー)もまた、説教じみたところは感じられる(フラニーとズーイほどではないにせよ―それはホールデン君が都度、冷静に回想しているからだろう―)。ある程度まっすぐな青春小説だと思うし、確かに多くの人に影響を与えそうなにおいはぷんぷんする。(ジョン・レノンを殺した犯人の愛読書であったことも有名な話)

話を「フラニーとズーイとのクロス」に戻すと、これを読んでいない方には伝わりにくいかもしれないけれど、一見「ホールデン君(兄)がフラニー(妹)」に該当し(つまり説教される側)「フィービー(妹)がズーイ(兄)」(説教する側)に該当するように見受けられた。いや、でも結論的には「ホールデン君がズーイ」になると思ったわけだけれど。(いや、あまりここはあてはめたりして考えない方が良いです)

正直なところ、続けて読んだからか、いろいろクロスしてしまったし、このクロスに加えて著者である「サリンジャーって何者なんだろう?」という疑問もわいてきた。誰が誰なのか、わからなくなってしまうような。

本作(キャッチャー)は、後半に進むにつれて、救いがたい状況に陥っていく。思わずぞっとするところもある。暗い気持ちになってしまった。
しかし、ホールデン君は回想する中で、その都度その都度の後悔や反省のポイントを綴っているし、ある意味ではこんなふうに回想できているということは(「頭がどうにかしているよね、正直な話さ」みたいなセリフが2000回ぐらい出てくる)、希望を持ち続けていた(る)のだろうと思う。例えば後半で妹のフィービーに「好きなこと(人)は何(誰)?」みたいに聞かれたとき、飛び降り自殺をした友達のことを挙げているが、ホールデン君はそうならなかった。実に絶妙に揺れ続ける中で希望を持ち続けていた、ということができると思う。

自分の過ちを過ちと認め反省し、最初から最後まで同じトーンで語られている(と、僕には思える)点で、何かしらの明るさや希望を多くの読書に与え続けてきたのではないだろうか。「フラニーとズーイ」もそうだった。ところが、最近よんでnoteに感想を書いたものでいうと「心は孤独な狩人(カーソン・マッカラーズ)」や「極北(マーセル・セロー)」なんかは、もっと救いがたい終わり方をしている。(とはいえ、暖かさは残る)

あえて細部のことは書かないけれど、例えば前半のスペンサー先生とのやりとりや、妹のフィービーとのやりとりや、後半のアントリーニ先生とのやりとりからも、わくわくしたり、やられた!と思わされたりするようなシーンはたくさんある。アックリーも独特だ。総合的には「ホールデン君さすがだな」と、なる。

くすっと笑えるような表現が随所に出てくる。そのたびホールデン君に対して僕は微笑んだ。池のアヒルは池が凍結する冬にはどうしているのか?という、タクシー運転手に対する執拗なまでの質問が印象的だったけれど、「話のわき道」というところだと後半のアントリーニ先生とのやりとりにも気づかされるところがある(口述表現という必修科目を落としてしまった話)。※いや、アヒルの話はわき道というより、ホールデン君が自分を冬のアヒルに見立てたのだろう。

数年ぶりに改めて読んでみて、非常に共感はするものの、どちらかというと「フラニーとズーイ」の方が僕にはおもしろかった。でも、はっとさせられるポイントは、本作(キャッチャー)の方がずっと多かったと思う。

ぜひ、サリンジャーのこの2作、読んでみてください。

というわけで僕はこれから「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(村上春樹 柴田元幸 共著)を読みますし、おそらく近いうちにその感想やらについてもnoteに書きます。

(書影は https://www.hakusuisha.co.jp より拝借いたしました)

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