生存はディストピアでオワコン

幸福を賭けた戦い

 人間は生存戦略に駆られている。生きることは戦争のようだ。社会的に生き残れるように競争したり自分の生き方を模索する。この世界は全ての人が幸せになれるではない。生きていて良い権利を全ての人が持つことはできないように見える。ただ少しの娯楽をもって生活できればいいだけなのに、それがどうして困難である世界なのか。

社会や現実や才能が夢を壊した

 好きなことを見つけ、やりたいことがあったら、それは苦しみながら遠回りして辿り着かないといけないのだろうか。美談を語るために苦しんで遠回りするつもりなんてない。「現実的」という言葉に苦しめられてきた。自分の力ではどうにもできなかった。夢を実現するのに「現実的」なものが邪魔をする社会に怒りを感じた。もちろん、全ての人が自分の夢を叶えられるわけではないということは分かっている。例え夢が叶ったとしても、人生上手くいくようになったとしても、「現実的」なもののせいで苦しんだ時間はなかったことにならない。納得できない人生の救いになるのは自殺だけだと思った。私の考えは浅はかかもしれない。だが、後悔し、苦しみ、悲しみ、社会や自分の才能に怒りを感じたのは事実だ。自殺したいと思ったのも。

 社会で成し遂げたいものがあるのなら、例えその社会が気に入らなくても、その社会に合うように生きるのは最もなことなのだろうか。不都合ばかり与えてきて、我慢や妥協が当たり前。
 自分の力で勝ち取った人は、環境のせいにするなと言う。世の中気の毒過ぎる人は沢山いるのに、その人達のこと何も知らないのだろうか?自分で何もしようとしなかったわけでもないし、行動する気力を奪われている人もいる。勝ち取れる人とそうでない人がどちらも確実にいる社会となっている。
 なくても良かった社会や現実がある。それを仕方ないで済ませようとは思わない。

いろいろなことが受け入れられない

 なぜこんなに納得できなくて苦しいのだろうか。それは、自分を否定するようにしか生きていないからか。社会-現実に合わせようとすると、自分を否定しないといけなくなる。それは本当に必要なことなのだろうか。

 私はこのまま怨嗟を蓄積していき、“怪物”となる時がくるのだろうか。

この世界について 存在について

 誰の役に立って、多くの人に興味持たれないことをしたいと思っていた。でも、人間に認められることが何だって言うんだ?
この世界で何か偉大なことを成し遂げたとしても、不幸でも、幸福でも、みんないつか死ぬんだ。死んだら何も思い出せないし、何も感じない。どんな生き方をしても、死んだら精神がなくなるのはみんな同じだ。だったらどんな生き方でも良いのか?私は何をして生きていくのが良いか、どうでも良くなってしまった。変な夢を見て、納得できる生き方を目指して苦しんで、でもそんなことしても死んだらとうでも良くなるんだ。存在として何かを成していることに何の意味もない(と思う)。存在しているのが気持ち悪い。
 「人生に意味はない。だから自分が好きなこと楽しいことしよう」と言う人がいるが、私には理解できない。余程ポジティブ思考の人でないとそうは思わないだろう。

もう分からない

 世界が何か分からないと思っていたが、
寮美千子作「ノスタルギガンテス」はそれをぴったりと表現してくれていると思う。
 もう死んだ方がいいとずっと思っているのに、まだ死ねずにいる。でもやっぱりもう私は死んでいいんだ。


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