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「がん」とは何か ー呼吸器内科医が現場で感じることー

 私がまだ学生の頃、実習で上級医に問われた言葉があります。

 「がん、とはどういう病気ですか。」

 遺伝子のエラーによって細胞が無限の増殖能を得て、性質が変わったり未分化になったりしながら増大、浸潤、転移を繰り返し、やがて個体死に至る疾患です、と。実習班のメンバーで知恵を絞って、およそ試験の模範解答といえそうな答えを導き出した矢先、

「全然違う。そういうことじゃあない。」

と一蹴されたことを鮮明に覚えています。

「痛いんだよ。」

立ち止まってジッと私たちを見ながら、先生は云いました。

「がんは痛い病気なんだ。そこをちゃんと分かっていないと、良い医者にはなれない。」

 座学 (解剖学、生理学、生化学、病理学、薬理学、微生物学、医療倫理学などの基礎科目を履修し、次いで内科学、外科学など20以上の臨床科目を教科書的に一通り学ぶこと)を終えて臨床実習 (実際に病院に足を踏み入れ、ベッドサイドで学ぶこと) が始まったばかりの私にとって、それは大きな衝撃でした。
 膨大な医学知識や研鑽して身についていく医療技術は只の前提条件であって、医師として重要なのはそこから先のことです。

 がんは難しい。

 「痛み」とは身体の痛みだけを示すのではありません。もちろん身体的苦痛が最も前面に出てくることは多いのですが、緩和医療の領域では痛みの解釈にあたって、4つの要素からなる全人的苦痛という表現を用います。これはホスピスの母とも呼ばれる英国のシシリー・ソンダース(Dame Cicely Mary Strode Saunders, 1918-2005) が提唱した概念で、末期がん患者における苦痛を①身体的苦痛、②心理的苦痛、③社会的苦痛、④霊的苦痛に分類し、それらの総合を全人的苦痛と命名したものです。

 総合病院で呼吸器内科医として働いていると、肺がん患者さんと関わる事は多い。皆、多かれ少なかれ「痛み」を持っていることに気付きます。

 その痛みはひとりひとり異なるもので、かなり踏み込んでその人の人生に関わらなければ分からない痛みもあります。いえ、正確には痛みの本質は当人にしか分からないのですが、その痛みを「想像する」ということです。

 「ピクリとも動けないほどの痛み」や「死ぬかもしれないレベルの息苦しさ」の苦痛は、経験したことがなければ想像できません。苦痛を経験する前と後では、苦しんでいる人を見る目が変わります。マジです。
 そして、どうしようもない苦痛に焼かれているとき、人は「なんでもいいからどうにかしてほしい」と考えます。これは私の実体験からくるただの感想ですが、たぶん皆さんそうなんじゃないかと想像します。

 このとき、苦痛をどうにかできるかもしれないのが医学だと私は考えます。緩和医療の領域も、日進月歩で発展しています。

「がん」は痛みを伴います。
 医療者として、忘れてはいけないことです。

 しかし医療者以外の方が、がん患者さんに関わる場合はどうでしょうか。
 この答えはありません。
 何故なら、「がん患者さん」という人はいないからです。

 名前をもったその人が、ただそこにいるだけです。だから関わり方の答えはひとりひとり違います。がんを罹患したからといって、その人が別人になるわけではありません。

「その人が最期まで、その人らしく生きられるようにサポートしたい。」

 呼吸器内科医として働き始めた頃に、当時の上司が言っていたことです。私もそう思います。

 ハイデッガーは著書「存在と時間」の中で「存在」について、「ある」と「ない」があることが「存在することの本質」と云いました。
 いつか来る「死」があるから「生」が輝くということです。

 それに気付いたとき、私には世界中が輝いているように見えました。

 一日の価値を決めるのは自分です。

 さて、今日はどんな時間を生きましょうか。



※ハイデッガーの解釈については独自研究による超訳のため、専門的に「それ違うよ」ということがあってもどうか御容赦ください。むしろ詳しい方は教えていただけると助かります。「存在と時間」、ひどく難解でした。

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