太陽と月
夕陽が海に沈んでいくのを眺めて、地球の自転速度というものが存外速いことを知る。
そんな少女時代だった。
日本海側で育った私にとって、太陽とは山から昇り、海へ沈むものだった。家のありとあらゆる窓から海を見ることができる環境にあったから、夕方に海の底へと沈んでいく太陽を肉眼でじっと見つめるのは幼いころから好きだった気がする。
さびしいから夕方は苦手だ、というひとも結構いると聞くけれど、私は夕方が好きだ。
そしてそれはおそらく、私が夕方の太陽と海、そして夕焼け空を愛しているから。
もし私が太平洋側に生まれ、毎日太平洋から昇る朝陽を見ることができていたとしても、やはり私は夕陽の方が好きだったろうと思う。
理科の授業で習った「太陽を直接見てはいけません」というものすごく大切な知識をきれいに無視して、うう~目がへんだとまばたきしながら、水平線の向こうへ消えていく夕方の太陽に「おやすみなさい」と話しかけていたくらいだから。
中学校のときの英語の教科書はもちろんNEW HORIZONという名だったのだけど、私はその表紙がとても気に入っていた。
表紙には夜の風景の中、海に半分沈んでいる三日月が描かれている。もしくは月は上ってくるところだったのかもしれない。画面の奥には太陽が同じように半分ほど見えていたから。そしてその月の近くを、船が水平線に向かって進んでいっている。そんな絵だった。
昼と夜をそれぞれ司る太陽や月が、1日の役目を終えたら海の奥底へ沈んでゆき、そのからだ(からだといっていいのかは分からないけど)を休めているとしたら、それはすごくおもしろいな。
でも太陽が海に沈んだら世界中の海の水は蒸発してしまうだろうなと、私は赤毛のアンのように想像の翼を広げた。
実際には太陽はものすごく遠くにあるので、もし海に太陽を沈めようとしたら地球ごと消えてしまうだろう。
けれど私の内なる世界にある太陽や月は地球の海に沈む可能性を秘めていたし、今でも私はそういうことを空想する。
***
子どものころ、太陽と月であれば太陽の方が圧倒的に好きだった。けれどある時期から、月もまた同じくらい私を虜にした。
地球の近くをぐるぐる回る錆びたさびしい星。大体、なんで星というものは回転するのだろうか。太陽系の惑星の中にはほとんど横倒しで回転しているものもいるし、それはちょっと不思議だ。
月は重力も地球の6分の1しかないし、生きものもいないとされている。小さくて大気をとどめておけないのに、形はきちんと持っている、モノクロの静かな衛星。太陽の光を反射することで輝き、太陽系のある限り満ち欠けを繰り返す。
月の表面の灰色の部分を月の海と呼ぶのだと知ったとき、私は歓喜の悲鳴を上げた。水がなくても海なのか、海と言ってしまうのか、と。
そこには昔は水が満ちていると思われていて、それで海と名付けられたらしい。
乾いた海という、一見すると矛盾しているようなものが月には存在していること、そして月の暗くて広い部分に安直にも海と名づけてしまうほど、地球には水が満ちていること。そういうことを考えて、なんとなく、さらに月を好ましく思った。
このまえどこかでさらっと触れたけれども、私は月の地名が本当に好きだ。やっぱり海がとりわけいい。月の写真の黒い部分には水にまつわる名がひとつひとつつけられていて、その名はどれもうつくしく、想像力をかきたてられる。
それらは細かく言えば大洋、海、湖、沼、入江に分かれている。たとえば大洋はひとつしかない。その名も嵐の大洋。
海ならばたとえば、雨の海、神酒の海、泡の海、静かの海。湖ならば夏の湖、死の湖、夢の湖、悲しみの湖。沼ならば眠りの沼や、腐敗の沼。入江であれば虹の入江。
もし月にひとが住んでいて、乾いた海を旅して誰かに出会ったりしたら、「私は秋の湖からきたのよ」とか、「おれは晴れの海で生まれたんだ」とか、そんな会話がされるのだろうか。
そんなことを思って、暇さえあれば月の物語を空想した。月の海や沼を冒険したらさぞおもしろいことだろう。どんなことが起こるだろう。どんな危機やよろこびを主人公たちは超えるだろう。
いつか月を冒険する物語を書けたら、どれだけ楽しいだろう、と。
***
私たちの生まれた地球の海には、たっぷりの水が満ちていて、太陽や月が繰り返しのぼったり沈んだりする。
かといって太陽や月を目がけて船出をしても、決してそれらを捕まえることはできない。
だけど空想の世界で私たちは自由だ。私の空想の世界では太陽は海の底で毎晩眠るし、空に浮かんでいる月は手にとってじっと眺めたり、お風呂に入れて光らせたりすることもできる。
そういうナンセンスな空想力をいつまでも持ったまま、地球で死んでいけたらいいなと思う。
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