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アウトサイダー

アウトサイダーという言葉を耳にするたび、しゅわしゅわと泡の弾ける炭酸飲料を連想しちゃう。

しかしそれは、完璧に後半の「サイダー」という部分に引っ張られているからであって、アウトサイダーという言葉本来の意味は、きっとあのさわやかな炭酸飲料とは何の関係もないのだろう。

そんなことを考えてつけた今回のnoteのタイトルにたいした意味はない。

語感がいいのと、使おうと決めていた空の写真との相性がいいのと、サイダーという部分が夏っぽいんじゃないかな、くらいのいい加減さ。けれど、夏の日々の記録にはふさわしいでしょう。

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へんな小説ばかり読んでいると、頭もへんになるのだろうか。

実家に舞い戻ってから私は、眠ること、食べること、お風呂に入ること、妹を迎えに行くこと…というような、必要不可欠なことをしている以外の空いている時間を費やし、貪るように小説を読んでいる。

家に帰ってきて最初に読んだのは、山尾悠子『仮面物語—或は鏡の王国の記』。2冊目は短編集、金井美恵子『兎』。そして今日読み終えたのは倉橋由美子の『聖少女』。

そして次は何を読もうかな、と家にある本を眺めている。

読書をする方々には分かっていただけると思うのだけれど、私の机の上には積読と呼ばれる、未読の本の山がある。

だからわざわざ考えて選ばずとも、山から適当にとって読めばいいのじゃないか、どうせいつか全部読むんでしょう?と思われるかもしれない。

私もそう思う。

けれどここまでで読んだ3冊を鑑みると、やっぱり次読むのにふさわしいのは、マルキ・ド・サド著、澁澤龍彥訳の『食人国旅行記』だよなあ…と思う。

山尾悠子さんは澁澤さんの影響を受けていると公言しておられるし、金井美恵子さんは私の大学の先生曰く、「澁澤の仲間みたいなもん」で、読んでみたら納得。

倉橋由美子さんの小説は元々母が集めていて家にあったのをはじめて読んだけれど、作中にサドを訳したT・S氏という字面が出てきて仰天した。これは間違いなく澁澤さんのイニシャルだもん。

卒業論文で澁澤さんを知ってから、私の読書遍歴は、またちょっとちがう方向へ進み始めてしまったような気がする。

でもそのこと自体はわるくないと思う。ので、この夏は澁澤さんを案内人に、サド侯爵の世界も探検してみることにしよう。

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暑くなってきたら、痛烈に「水にひたりたい」という衝動が起こる。それもプールや川や湖ではなくて、海に身体をひたしにゆきたいのだ。

ひとも含め、いきものは太古の昔に海からやってきたのだから、いくら陸の上で生きているとはいえときどきは塩水に肉体をひたさなくてはなるまい、と私は考えている。

そうは言いつつ、私は泳ぐのがものすごく不得手だ。私はガーゼタオルを持っていなくてはお風呂に入れないくらい、水をこわがる子どもだった。

けれども泳ぐのと浸かっているのとはかなり話がちがう。

べつに泳ぎたいわけではないのだけれど、お盆までのどこかで、あの大きくて果てしないように思われる海の水に全身をひたしにいこう。

そしてすっかりくたびれて、その日の夜は死んだようにぐっすり眠りたい。

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こんにちは。暑中見舞い申し上げます。
お元気ですか。
さて、私は車を運転しながら歌うのがだいすきなのに、いま人生で最大級レベルに声が嗄れていて、満足に歌うことができません。特に高音がほとんど出ないので、曲の最初の方は歌えても、サビになるとどんな曲も台無しです。ユーミンの「ルージュの伝言」なんか本当にひどいものです。歌ってあげたいくらいです。あなたはいまの私の声を聞いたらおかしくて笑うか、ものすごく心配するかのどちらかでしょう。…

そういう葉書を出したい友人がいる。文面は完璧なのに、まだ書いていない。どのタイミングで出すかも悩んでいる。

(なお、私の喉が嗄れているのは、6月から7月にかけて、毎日自分のもとの声よりはるかに高い声で何時間もお経を唱えさせられていたからである)

私は自分のことを基本的には愛情深いと思っているし、誰かとの関係性を大切にできる人間だとも思っている。しかし物事には塩梅というものがあって、それを間違えると愛情深さも相手の負担になってしまう。

たとえば手紙を書きすぎると、いつしかそれがあたりまえになって、どんなに愛する相手からの手紙であってもよろこびが薄れてしまう、ということはある。

私は何かが足りないのと足りすぎるのとでは、足りすぎている方を選ぶ人間だから、すこし足りないくらいでちょうどいいというひとからしたら、足りすぎているひとのやることは、やや重たかったり、鬱陶しかったりするのだと思う。

だから手紙や葉書を送る頻度も、もう少し気にしてみなくてはならない。たぶん。そんなことを思うと、文章を考えていても書くに書けず、送るに送れないんだな。

まあ、そんなことを言いつつ、誰かに手紙や葉書を書く時間は私の癒しの時間でもあるので、8月中旬までには、あの文面から始まる暑中見舞いを友人宛に出しているのでしょう。

ただ、そこまでに私の喉が回復していたら、また一から文を考え直さなくてはならないのが、いまの私の悩みなのだけれど。

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恋人と焼き肉を食べにいった。

私はこの1か月ほど、肉も魚も卵も食べられない生活をしていたので、彼は私が地元へ戻ってきたら、なんとしてでも肉を食べさせようと決めていたらしいのだ。ちなみに私はこの1か月で4~5㎏ほど体重が落ちた。

彼は私の身体のあちこちを触っては「痩せてるよお」と嘆き、声を聴けば「喉が嗄れてるよお」と哀れみ、正座やらなんやらのためにぼろぼろになった膝を見て「かわいそうに」と悲しんだ。

そんな彼に甘やかされて、私はたらふく焼き肉を食べた。

お肉が本当においしくておいしくて、ほっぺたが落ちそうだった。「俺が焼くからあなたは今日は食べな!ほら」と彼は私のお皿に次々とお肉を乗せ、「俺が運転するからお酒飲みな?」とビールをごちそうしてくれた。もちろん白米もお腹いっぱい食べた。

肉、ビール、白米。なんて贅沢な組み合わせ。

私が一口頬張っては「おいしい!」とよろこびの悲鳴をあげるたび、彼は満足そうに、そして心底うれしそうに笑って「もっと食べるんだよ、青葉ちゃん!」と言った。

彼と付き合ってから、私は食事に対して以前より興味を持つようになったような気がする。

もともと私はかなり小食だったし、肉や魚よりも何かの和え物とか酢の物とか、きんぴらとか、母の言うには「精のつかないもの」の方が好きだった。

そのため私はずっと華奢な少女だった。いささか痩せすぎているくらいだった。

けれど彼と恋人になってから、私は本当によく食べるようになったと思う。彼はごはんを食べることがだいすきなひとだから、私も、もりもりとごはんを食べるようになったのだろう。

そしてここ数年で私はやせっぽちの女の子を脱し、適度にむちむちとした女らしい身体つきになった。

そんな彼女がたった1か月で数kg痩せて帰ってきたら、そりゃ、恋人からしたら心配なのだろう。私も逆の立場だったら、「ひえ~!大丈夫!?ごはんをたくさんお食べ!お肉やお魚を食べにいこう!」と言っているだろう。

彼とごはんを食べるのは、いつもとても楽しい。そして彼が私のことを大切にしてくれているのは、とてもとてもうれしい。

彼が焼き肉をご馳走してくれたので、私は今度彼に海鮮丼をご馳走するつもりである。その話をすると私の恋人は「いいの?やったあ!」と大喜びしていた。

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夏だから、近いうちに花火がしたい。手持ち花火。

あの光とともに噴き出す煙のにおいを嗅いだとき、私はなんとも表現しがたい郷愁と胸のせつなさを感じる。

これを書いていて、去年は大学の友だちとも花火をしたなあ、というようなことを思い出した。張り切って花火を買いすぎたために、最後の方はみんな、作業のように花火を燃やしていた。

お店を駆け回り、虫よけスプレー、バケツ、チャッカマンを準備してくれたうっかりやさんの彼女とのLINEのやりとりはまだちゃんと残っていて、そこで彼女は「楽しみすぎて頭がフル回転してる」と私にメッセージを送ってきていた。かわいいね。

しかも彼女が買ってきてくれた虫よけスプレーは、その夏中学生研究室に置かれ、何度も私たちを守ってくれたのだった。

噴出系の花火に火をつけていたのは、今思えばやっぱりどうしてもお世話係になってしまう眼鏡の彼だったなあ。花火の最中に食べていたあまいおやつを地面にこぼしたため、小さい蟻にたかられている私が、水道の水でサンダルの脚を洗い流しに行くのに「暗いから一緒に行くよ」と言ってついてきてくれた。

そういう集まりには絶対来ないと思っていたカッターシャツの彼が来てくれたのも、すごく意外だったけどうれしかった。途中で帰るとか言ってたくせに結局最後までいたんだな。

でもその後のカラオケにはいかずに「恋人がいるので」というようなことを言って颯爽と帰って行ったのは、好感度抜群だった。「なんだかんだで結構楽しかったのかな」と、うっかりやさんの彼女と話して、妙にうれしくて笑ったなあ。

ワニの筆箱の彼が、噴出花火に近いところにいた私を見て危険を察知し、「危ないよ」とかなんとか言って、ぱっと私の腰に手をまわして自分の方へ引き寄せてくれる、という紳士的出来事もあった。

避けた次の瞬間には花火が噴きあがり、私のいたところにも火花が散っていたので、うわ、本当に危なかったわと思いながら「ありがとう」と言うと、彼は「うん」と言った。なかなか親切なやつだった。

夏の間にもう1回くらいしたいねえと話していたのに、結局、花火をしたのはその1度きりだった。

けれどそのためにあの夏の夜の花火の思い出は、かえってひどく強固な記憶となってしまったのだ、ということは想像にたやすい。絶対に忘れないであろう、1度きりの花火の思い出。

みんな今年は誰と花火をするのだろう。誰と一緒にせよ、みんながしあわせであるといいな。

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最近、いいなと思ったり、はて…と考えたりしたことの記録。

家の裏に生えている、ぱりぱりに枯れた大きなシダ植物を見て、シダ植物は枯れると人間の背骨と肋骨のように見えるのだな、と気づいたこと。

読んでいた小説の中で少女が着ている服だか身に付けている何かだかの色が、「彼岸花の色」と喩えられていたのがなんだかすごくいいな、と思ったこと。

最近、山道に咲いているオレンジ色の花の名を母に訊いたら、「狐の剃刀」と言われ、去年もまったく同じやりとりをしたのを思い出したこと。

劇場版カードキャプターさくらを見なおして、さくらちゃんに憧れていた幼い私がまだ胸の中で生きているのを再確認したこと。

運転していると草むらから道路にかけて立派な青大将がにょろにょろしているのを見つけ、彼(あるいは彼女)が道を横断するのを待っている間、もしこの蛇がマムシだったら、私は迷いなく蛇を轢き、さらには車をバックさせてもう一度踏んでまで確実に蛇を殺さなくてはならなかっただろう、と想像したこと。

夜ごはんのお刺身を受け取りに隣町のお店へ行くと、そこのおじちゃんが育てている美しい白百合を分けてくれ、その香りのあまりの強さに酔いそうになりながら家に帰ったこと。

畳の上でお昼寝し、目覚めたときに飼い猫が私に寄り添って眠っているのに気づいたときの愛おしさが好きなこと。

大学時代の先生に会いに行くつもりで「夏休みにお会いしたいです」と言ったら、先生の方が私の家に遊びに来てくれることになって、それがとても楽しみなこと。

デジタルの日記を読み返していたら、2024年4月27日に「夕陽の光がたっぷり満ちた部屋の中で、僕は長い日記を書いた。灯りはつけなかった。」とあり、そんなこと書いた記憶は全くなかったけどなんだか気に入ったこと。

晴れた夏の日に車の窓を開け、ぬるい風を浴びながら久石譲のSummerを流して運転するときの、あの気持ちよさをうまく言語化できないこと。

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せっかくサイダーを連想するタイトルをつけたけど、あんまりさわやかな内容ではなかったかも。ごちゃごちゃしているし。

まあいいか。寛容であることは大切である。

日がどんどん長くなっていく、その極みにある夏至を目前に生まれたのだから、私が夏を無条件に愛しているのは当然のことなのかもしれないね。

6月のど真ん中にまたひとつ年を重ね、23歳になった私は、これからも年相応に生きていき、夏がくるとそのたびに心を躍らせるのでしょう。

近いうちに、5月末から7月頭のことをnoteに書くぞ、絶対に…。でも今日は眠ります。

みなさんうまく体内の熱を逃して、涼しく夏を過ごしてください。土用に入ったから、あまり無理しないでいきましょう。

おやすみなさい、よい夢を。






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