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カッターシャツの彼3

そんな気がないのに気づいたら3回も同じひとのことを書いているというのは、もうそのひとの虜になってしまっていることの裏付けになるのだと思う。

だからつまり、私はカッターシャツの彼のことをすごく好きなのだろうし、誰かにそう指摘されても言い逃れできない。

(カッターシャツの彼のその1、その2はこちら↑)

言い逃れはできないけれど、そもそもするつもりもなく、私は彼をとても魅力的だと感じるし、会話の回数が増えるにつれてその気持ちは心に馴染んでいくような気がする。胸ではなくて、心に。

心と言えば、彼は私の卒論の小説『高丘親王航海記』を最初の方を読んでくれたらしく、つい最近「澁澤(『高丘親王航海記』の作者)は、『心』って字を漢字じゃなくてひらがなで書くんだね」と話しかけてくれた。

つまり、私の扱う小説内で、「心」という言葉が「こころ」とひらがなで表記されていることを彼は言っているのだ。

私は「そう!そうなの!」と返した。

すると彼は「それがすごくいいと思ってね。ひらがなっていうのが。僕ね、『心』っていう漢字が、あんまり好きじゃないんだよね」と続けた。

「そうなの?どうして?」と訊くと、彼は「『心』って漢字は、指し示しているものに比べるとちょっと単純すぎるんじゃないかって気がするんだよね。実際のこころって複雑なものだと思うんだけれども、その割に漢字が簡単すぎて、なんかしっくりこないんだよね」と理由を教えてくれた。そういうわけで、彼も「こころ」と文字を書くときにはひらがなで書くという。

私は彼のこういうところが本当に、本当に好きなのだ。

何かというと、まず自分の中で物事に対するこだわりがきちっとあって、それを他者に対して言葉で表現できるというところ。そして単純な「好き」「嫌い」ではなくて、その理由が彼の中で確固としてあるところ。

何を語るにしても、彼は彼特有の美学というべき何かを持っている。それが彼を彼たらしめているのだということが最近分かってきた。

いや、最初からそういうオーラは感じていたけれど、その直感が間違っていなかったことを私はここ数カ月で確信したのだ。私と彼はほぼ毎日、研究室で顔を合わせて会話をする。その度に「ああ、やっぱり魅力的なひとだな」という認識は高まっていく。

私が彼に興味を持ち、彼についてnoteで記事を書いた2年前(2年前ですって!)より、私たちはずっと親交を深めている気がする。

彼は物語に登場する人物みたい。

不思議で、しかし心地よい雰囲気を持っている。博識でユーモラスでしかもおしゃれ。彼が研究室にいるのといないのとでは、その日の雰囲気ががらっと変わる。

彼は着物の帯みたいなひとだ。
帯がなくては着物は締まらない。

彼がいなくては研究室は締まらないのだ。

***

そんな彼とのエピソードをもうひとつ。

先日、研究室へ行ってロッカーを開いたら白い付箋がぺたりと貼ってあった。何かと思って見てみると、そこには次のように書かれていた。

〈青葉〉さん
あまり、このことばは、個人的に好きでは、ないのだけれど、明日の発表、がんばって。
個人的な用事があって、僕は、1日、3日といないので、そのあいだのレジュメをロッカーにでも入れておいてください。よろしく、お願いします。


メモの写真を撮ってそのまま載せるのも情緒に欠ける気がしたので引用の形にしたけど、これはカッターシャツの彼からの伝言だった。8月1日と3日のゼミに出られないので、不在の間の発表資料をとりまとめてロッカーに入れておいてほしいという依頼。そして1日に発表を控えている私への激励。

特徴的な文字と読点の多い文章で、名を見るまでもなくカッターシャツの彼からだと分かった。私たちはもう互いの文字や文章の癖まで知りつつあり、それはある種、とても強固で特殊な結びつきだと思う。

ゼミの誰かが休んだとき、その日の資料をまとめてロッカーに入れるのは、カッターシャツの彼の役割だ。しかし彼がいないときは私が代理になる。だから私に言ってくれたのだろう。それでも頼られたことに対して悪い気はしなかった。私は誰かに頼られるのが嫌いではないのだ。

口頭で伝えるのではなくてわざわざ丁寧にメモで書置きを残しているところも、言語文化を学ぶものとしては「いいな」と思った。しかし最も私が惹かれたのはこの文章の一文目だ。

「あまりこのことばは個人的に好きではないのだけれど、明日の発表がんばって」。

「がんばって」と言うために、「このことばは好きではないのだけれど」と前置きするところが実に彼らしいのだ。「嫌いなのだけれど」でなくて「好きではないのだけれど」という言い回しなのも好ましかった。

そして彼が「がんばって」という言葉を好きではないというところが、私にとって、この文章の核なのだ。なぜなら私自身も「がんばって」という言葉があまり好きじゃないからだ。言うのも言われるのもどちらも。

1つ目の理由は「がんばって」という言葉はどこか他人事な気がするから。もう1つの理由は、もうこれ以上がんばりたくないのに、既にがんばっているはずなのに、追い打ちをかけるように「がんばって」と言われたときの絶望を幾度となく経験してきたから。 

だから同じような言い回しでも「がんばろうね」の方が私は好きだ。

それならば「(ともに・お互いに)がんばろう」というニュアンスが入ってくる。ひとりきりじゃないのだと思える。

この「がんばって・がんばろうね」についての話は恋人としたこともあるけれど、彼は「がんばって」と言われることがわりと好きだと言っていたので、価値観はひとによって違うのだけどね。

そして私にこうして理由があるように、たぶんカッターシャツの彼にも彼なりの「がんばって」を好きじゃない理由があるはずなのだ。金曜に彼が大学に戻ってきたらぜひその理由を聞きたい。ぜひとも聞こう。

ちゃんと発表がんばりました、資料もきれいにまとめて入れておきましたと、ばっちり報告するのだ。

***

この文章、彼に届いたらいいな。
しかしたとえこれを読んでも、彼は「〈青葉〉さん、noteで僕のこと書いてるでしょ」などとは口が裂けても言わないだろう。しれっと目を通して「ふむふむ」と思ったとしても、それを胸にとどめたままいてくれるにちがいない。

そういうところがいいのだ。

そうして彼が研究室に帰ってきたら、また私たちの帯になって、きゅっとみんなの空気を引き締めてほしい。研究室にいつも彼がいてくれることで、私たちは「がんばらなくては」と思えるのだ。不思議だけれど。

私は帯にはなれないかもしれないけど、カッターシャツの彼とはちがう部分で研究室のみんなの助けになれたらいいな。休憩中にちょっと場を和ますのとか、努力しているみんなを褒めたたえるのとか、それくらいでいい。私もみんなの役に立ちたい。

そしてカッターシャツの彼のように、いないとちょっとさびしいひとになれたら素敵だと思う。


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