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ピエール・ロチと森鴎外

〈note的には長めの約5千字〉


 日本では『お菊さん』で有名なフランスの作家ピエール・ロチ(1850~1923)については先行研究も多い。あらためて学術論文を書くこともない。ただ若干の感想をノートしておく。

 誤解されたくないのではじめに述べておくが、本稿の目的は、ロチが植民地問題について「良識派」だったと主張することで、彼の植民地責任を減免することではない。そうではなく、ロチが森鴎外の同時代人だったことを想起することで、19世紀末、グローバル化が飛躍的に進展した時代における、男たちの〈生きざま〉について考えてみたい。

タヒチで


 1867年10月、ピエール・ロチは海軍学校に入学した。1869年末には練習艦に乗って、アルジェリア、南米に行った。普仏戦争後、護衛艦に乗って、セネガル、そして再び南米に出向した。

 1871年末にはフリゲート艦に乗ってタヒチに行った。そこでロチは先住民の女性ララフを愛し、そして捨てた。その経験をもとに小説『ロチの結婚』が書かれる。

 ロチは西洋文明のタヒチへの到来を手放しで喜んだわけではなかった。

「ここにはまた(西洋)文明もあまりに過度にやってきました。我々の愚かな植民地文明が、我々のすべての習慣が、すべての悪徳が。そして、野性的な詩情は、過去の風習や伝統とともに去っていくのです。」

(第1部第4章)

 ロチは西洋文明がタヒチの伝統を駆逐することを残念に思っていた。彼は文明化に反対だった。非西洋世界を文明化する使命感など持ち合わせてはいなかった。実際ロチはポマレ女王という老女に謁見したときの感想を次のように記した。

「彼女の(中略)いかめしい、老いた顔立ちには、まだ偉大さがあった。とりわけ大きな悲しみがあった。(中略)その王国が(西洋)文明によって侵略され、ちりぢりばらばらになっていくのを見た悲しみ、-その美しい国が売春宿に堕落するのを見た悲しみだった。」

(第2部第24章)

 一方、ロチが愛したララフは肺病にかかってしまう。病状が悪化するララフを見ながら、彼は書いた。

「彼女は、ポリネシア種族の感動的で物悲しい、小さな化身だった。その種族は、我々の文明と悪徳に接触して滅亡していき、まもなく、オセアニアの歴史上の思い出に過ぎなくなるのだろう。」

(第2部第35章)

 しかしロチはまた消え去ろうとするポリネシアの伝統をじゅうぶんに理解できなかったと告白した。

「世界の反対側で生まれたわれわれにとって、われわれとはかくも異なる、これらの不完全な人々を判断することは、あるいは、単に理解することは、不可能である。彼らの本質は、不可思議で未開のままだが、時によっては、愛情と洗練された感受性の魅力をずいぶん見つけることができる。」

(第3部第27章)

 1872年末、彼はフランスに帰った。

トルコで


 1873年、ロチは沿岸警備艇ペトレル号に配属され、フランス領西アフリカに赴任し、1874年にフランスに戻った。このときのセネガル滞在の経験をもとにして『アフリカ騎兵』が書かれる。 

 そしてロチは1877年に軍艦クーロンヌ号に乗って、トルコに向かった。この地で先住民女性アジヤデを愛し、そして捨てた。それは小説『アジヤデ』に結晶される。

 『アジヤデ』の中で、ロチは西洋文明とトルコを比較し、後者を前者よりも高く評価した。例えば彼は次のように書き、「忠実な友」である先住民サムエルとの友愛を論じた。

「貧しい人々の方が、そうでない人々より、自発的で絶対的な献身というものを知っているのである。(西洋の)文明化した人間よりも、ぼくは彼らのほうが好きだ。文明人のエゴイズムとさもしさが、彼らにはない。」

(第2部第2章)

 また平等が実在するのも、西洋ではなく、むしろトルコであるように思えた。

「トルコ式コーヒー店では夕方になると、それこそどんなささやかな店であっても、金持ちと貧乏人、パシャと庶民が分け隔てなく寄りあつまるのだ…おお、平等よ!われら民主主義の国家、西欧の共和国では、いまだに達成されざるものよ!」

(第3部第34章)

 そしてロチは先住民の友人アフメットに、西洋にはトルコに比べて自由がないと嘆いた。


「(西洋では)あらゆることに法律があり、あらゆる人のために規制がある。(中略)ぼくらがイスタンブルで毎日のようにやっていることの四分の一でもやってごらんよ、たちまち警察署長さんと一時間は交渉しなければならなくなる!」

(第4部第25章)

 かくしてロチは自由も平等も友愛も感じられない西洋よりも、トルコを理想化して愛した。

「ぼくは政治に無関心だが、それでも消滅の危機にさらされているこの美しい国には、共感を覚えずにいられない。ゆっくりと、気づかぬうちに、ぼくはトルコ人になっていく。」

(第2部第14章)

 これほどまでにロチが熱愛するトルコは、もちろん西洋化以前の古いトルコである。それゆえロチはミドハト憲法の発布を嘆くのだ。それがトルコの「個性」ないし「特殊性」を消し去るのではないかと心配して。

「なんと気の毒にトルコが憲法など発布してしまった!いったいどこへ行くつもりなのだろう?それを聞きたいものです。われらはなんという時代に生まれおちたことか。立憲スルタン制、そんなもの、ぼくが叩き込まれた種の概念のどこにもありませんよ。(中略)ぼくは真面目なことすべて、とりわけ政治というものは、ふざけた冗談だと思っている人間だが、それにしてもトルコはこの新制度の適用によって、個性という観点からも大いに失うものがあるだろうと愚考する次第なのだ。」

(第3部第16章)

 しかし彼は愛する恋人アジヤデのもとを去った。そして帰国後、イスタンブルの先住民の友人に宛てて次のような手紙を書いた。

「母国のこのささやかな土地を小生は愛しています。何度となく逃げだしはしたけれど、僕の家族の住むこの家を愛している。(中略)この田園も、古い森も、それなりの魅力、牧歌的とでもいうべき大きな魅力をもっています。貴君におわかりいただけるように説明することはむずかしいのですが、なにかしら、過去の魅力とか、かつてあったもの、昔の牧人たちの魅力とでも言いましょうか。」

(第4部第30章)

 ここにロチの本質が現れている。要するに彼は前近代に魅力を感じる保守派なのだ。近代の普遍主義に反対なのだ。だから彼は古いトルコを愛することができたのだ。しかしトルコは露土戦争に敗北し、アジヤデも病で独り死ぬ。

日本で


 中尉に昇進したロチは、1883年、装甲小型護衛艦アトランタ号に乗ってベトナム遠征に参加した。『フィガロ』紙に、フランス軍が先住民を虐殺する様子を書き、残酷だと物議をかもした。

 そして1885年、訪日。このとき『お菊さん』『秋の日本』の素材を得た。
 これらの著作で、ロチは日本人を「猿」にたとえるが、それは決して人種差別ゆえではない。例えば『秋の日本』のなかの次の文章。京都のホテルの食堂での様子である。

「いまいるお客さまは、イギリス人の遊覧客四人きりで、即ち、典型的な風采をした白髪まじりの二人の紳士と、いいお年の二人の令嬢である。丈は六尺、極端に不器量な彼女たちは、その胴体のぐるりに、手に負えない鯨骨をつっぱらせた、白モスリンの覆いのある藤椅子のような格好の服を着ている。やさしい日本の牝猿をすでに見慣れた私の眼には、彼女たちは市の見世物にでも出すために衣装をつけさせた二匹の雄の大猿のように見える。」

(聖なる都・京都、第6章)

 日本人に対するのと同様にイギリス人に対しても辛辣である。要するにロチは毒舌家なのだ。ただそれだけのことである。あまり気にしすぎてはいけない。
 むしろ重視したいのは、彼の日本観に一貫性がある点である。彼は、前近代的な日本には敬意を示す一方で、西洋化した日本を滑稽だと笑ってネガティブに評価した。例えば京都の西本願寺を訪れた感想を、彼は次のように書く。

「モダンな日本を見るたびに必ず浮かぶ微笑が、ここでは全然浮かんでこない。ある理解しがたい過去の静寂の中へ、その建築、絵画、美学がわたしにとってまったく見慣れない未知のものである一文明の生気の失せた輝きの中へ、わたしは分けいってゆくような気がする。」

(聖なる都・京都、第6章)

 また赤穂浪士の墓を訪れたときの感想は、次のようなものである。

「(赤穂浪士の)この物語は、小賢しい堕落した今日の日本人を知ってみると、まるで古めかしい謎のように不可解である。それは崇高な、騎士道的な、ある偉大な過去の観念を喚起してくれる-そうして同時に、わたしがひどく冷笑したこの近代の日本の上に、一種尊敬の影をわたしに代わって投げてさえくれる。」

(サムライの墓にて)

 鹿鳴館でフランスから輸入した洋服を着た小さな「猿」を見るとどうしても滑稽だと微笑がこぼれてしまうのだが、あるいは鉄道馬車に乗る江戸の市民の惨めな格好を見るとうんざりするのだが、他方、野外で働く百姓の、小柄ではあるが立派な体格と、真っ白な歯並びと、生き生きとした眼を見ると親愛の情が生まれる。要するに保守派のロチにとっては、伝統的日本人が大事なのであって、西洋を真似る日本人は滑稽なだけだった。まさにこの地でロチは菊と愛を交わし、そして別れた。

森鴎外とロチ


 ところで異郷における外国人女性との恋愛といって、日本人が想起するのはおそらく森鴎外『舞姫』であろう。鴎外は1882年から1888年までドイツに留学し、ドイツ人女性エリスを愛し、そして捨てた。先進国のロチの後進国の女性への態度も、後進国の鴎外の先進国の女性への態度も、五十歩百歩である。ロチの女性関係を植民地主義からのみ説明することは、妥当性に欠けよう。

 鴎外は津和野藩の出身だった。薩摩でも長州でもない。「薩長ならざるものは人ならず」みたいな軍隊組織のなかで、「所詮、自分なんて」と疎外感を抱いていたのではないか。ロチはロチで、工業化の時代にありながらも、古い田園と古い森を愛した。彼の疎外感もまた強いものがあったと推察できる。おそらく鴎外もロチも「自分は時代の主流ではない、自分は無力なのだ」と苦々しく感じていた。

 鴎外が自分を慕って訪日したドイツ人女性に対して、日本は「普請中」なのだ、だから自分は忙しいのだと吐き捨てるように言うとき(『普請中』)、おそらく彼は「俺のせいではない」という言葉を飲み込んでいた。ロチにしても、非西洋世界が西洋化=文明化していくのを見ながら「俺が文明化を望んだわけではない」と心の中でつぶやいていたに違いない。
 いずれにせよ西洋化=近代化=文明化という時代の大きな流れはすでに決まっていた。それに抗しうる理念を掲げることができないのならば、男は黙って諦める以外に道はない。

 そしてロチは「古き良きもの」を惜しみ、非西洋世界の思い出を蒐集した。日本でも古美術を買い漁ったようだ。実際、他に何ができたというのだろう。

 1900年、海軍中佐ロチは義和団事件に対処すべく北京への遠征を命じられ、中国に上陸した。フランス水兵、アルジェリア歩兵、コサック兵、オーストリア兵、ドイツ兵、イギリス兵、凛々しい小柄な日本兵、ロシア赤十字の金髪婦人らを見ながら、廃墟と化した北京で彼は書いた。

「北京は終わった。その名声は地に堕ち、その神秘は明るみに出された。この〈皇城〉はしかし、地上最後の未知と驚異の隠れ家、理解を絶する、ほとんど伝統的な太古の人類の、最後の砦であった。」

(北京最後の日)

 「最後の砦」は陥落した。かくしてロチは心傷つき帰郷し、世界各地で蒐集した品々に埋もれ、愛する過去の夢に逃避した。

21世紀における普遍文明VS特殊文化


 さて21世紀、北京は中華民族の偉大な復興を唱え、ロシアはユーラシア主義を提唱してウクライナに侵攻し、ベトナムはそのロシアを公然と支持している。トルコでは政教分離に反する動きが認められ、アフリカではイスラム原理主義者が奴隷制の復活を謳っている。彼らは多極化の名のもとに自分たちの特殊性をアッピールする。

 しかし地球上のあらゆる個人の価値は同じでなければならない。そう信じるのが普遍的人権の理念である。もしもこの理念よりも、より良い理念がなければ、たとえ過去においてそれが植民地支配の口実として用いられたとしても、それを支持するしかないだろう。

 日本も、国内的には死刑制度の廃止など人権を尊重する政策をとると同時に、対外的には積極的平和主義を唱え、人権を脅かす国々に対する日本を含む多国籍軍の派遣を国際社会に働きかけていくべきだろう。権威主義的な国々のなかにも人権の価値を知る活動家たちはいるはずだ。彼らを助けるための軍事支援であるべきだろう。香港の周庭さんを救えなかった過ちを繰り返してはならない。

 文明化を徹底させ、人権の支配を世界に確立することが、アジヤデやエリスといった女たちの涙に僅かながらでも報いることにつながるのだ。と言うか、それ以外にいったい何ができよう。

参考文献


ピエール・ロチ著
『ロチの結婚』黒川修司訳(水戸社、2010年)。
『アジヤデ』工藤庸子訳(新書館、2000年)。
『秋の日本』村上菊一郎・吉永清訳(角川文庫、1948年)。
『北京最後の日』船岡末利訳(東海大学出版会、1989年)。

Sylvain Venayre, Une guerre au loin. Annam, 1883, Paris, Les belles lettres, 2016.

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