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何県民にもなれない私は

人に出身地を聞かれたとき、一応長野県だと答えるようにしている。
だが、心の底から納得してそう答えているわけではない。

なぜなら私は、愛媛生まれ愛媛育ちの両親のもと静岡で生まれ、長野で育ったからだ。
客観的に見たら私は長野出身なのだろう。一般的に、15歳くらいまでで最も長く過ごした場所のことを出身地というらしい。
でも、私が慣れ親しんできた家庭の味はどちらかと言えば関西寄りだし、方言も身につかなかった。
幼い頃から、自分が長野県民だという自覚はなかった。ただ、今ここにいるだけ。
ある程度育ってくればこの土地の良いところ悪いところも分かってきたし、田舎特有の閉鎖的な価値観に反発を覚えることもあった。
でもこれは私がどこで育とうが同じような不満を抱えていただろうから、今は置いておく。とにかく、自分は長野県民だという自覚は全くなかった。今でもほとんどない。

転校や引っ越しを繰り返したわけでもないのに長野県民の自覚がないのは、世間一般のイメージする長野県とはちょっと違った場所に住んでいたことが多いに関係していると思う。多くの人が想像する長野は、長野市とか軽井沢町みたいな夏は涼しくて冬は雪がたくさん降る、避暑地兼観光地だろう。
だが、私が育った土地は夏は暑いし冬は雪が降っても積もらない。スキーもほとんどやらない。観光資源も全くと言っていいほどない。
長野のいい要素がひとっつもないのだ。りんごがたくさん取れることくらいしか、長野県のイメージと合致するところがない。
そういうわけで、自分の育った土地に特徴を見出せず、誇りを持てないことがその土地に根付く者としての自覚を持てないことにつながったのだろう。

ところで、アイデンティティの形成において、出身地はとても重要なキーワードになってくると思う。人間関係でも、出身地というのは何かのトリガーになり得る。たとえば方言などの話し方がトレードマークになったり、遠く離れた故郷で同郷同士が仲良くなったり。そうした出身地という軸がない私は、方言や地域の文化というものに憧れていた。だからこそ、進学先に京都を選んだのだ。
つまり、私が京都に移り住んだのは、古都の雰囲気を味わいながら、関西弁に囲まれていたかったから。単純すぎて笑ってしまうでしょう?でも、18歳の私は本気だった。どうしても東京ではなく京都に行きたくて、関西の大学ばかり受験した。無事第一志望に合格し、晴れて京都へと上洛した時、自分の居場所はここだと思った。
それは何故だろう、京都への憧れというものも強く影響していただろうが、何より関西の風土や気質が自分に合っているように感じたのだ。
両親が関西(愛媛も広く考えれば関西だ)出身で、そうしたものを引き継いでいるのかもしれない。(そもそも長野って関東なのか関西なのか分からない。文化もどっち寄り、と断言できない。)
とにかく、京都にいた6年間、私の長野出身だという意識はほとんど表に出てこなかった。もちろん、会話のなかで出身地の話は出た。言葉が違うから。でも、それがなんだというのだというくらいに、長野の話には発展しなかった。たまにGoogleアースで実家周辺を見せて、自虐ネタに使ったくらい。

大学というのは不思議な場所だ。日本全国いろんなところから学生が集まって、独自の文化を形成しているから。私はそこで、ただの石宿アオとして存在することができた。出身地は、私を構成する数多の要素のひとつでしかない。周りはそう見てくれたし、私も周りをそう見ていた。
そうして、私は出身地という軸がなくても気にしないようになった。だって、出身地でその人のことが全てわかるわけではないし、価値が決まるわけでもない。
逆に、出身地という色眼鏡で人を見なくなった。関西人だからノリが良いとか、東京出身だから都会育ちだとか決めつけることがなくなったのだ。私も、長野県民だけどスキーもスノボもできない。

そういうわけで私は、長野県民という自覚なく今日も長野で生きている。
松本山雅は応援するけど、それは自分が長野県民だからじゃない、と思う。一度応援し始めたから最後まで、の精神だ。
テレビで長野の話題が出ると、おっと思う。でもそれも、身近な話題が出たら嬉しいからだと思う。

これからも長野県民になれる気はしない。
納得いく答えが見つかる気もしない。
だから次に誰かに出身地を聞かれたら、地球です!と答えるくらいの気持ちでいようと思う。

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