「多様性」の落とし穴
「多様性を尊重しよう」「多様性のある社会を」
昨今、どこでも聞くことができるこの「多様性」という言葉。
よく聞くし、この言葉からは温かさや平和などといったイメージすら感じられるものだ。
でも、、、
一見、いいように思う「多様性」にも、よくないものが混じってたりするんじゃないのだろうか。
ついこの間、ある触発を受けて「多様性」について批判的に考えてみた。
はじめに。みなさんは、「多様性」ってなんで大事だと思いますか?
私の意見に目を通す前に、余裕があったら考えてみてほしいです。
ちなみに「多様性ってなんで大事なんだろう?」ってことを考えたときに私がまず思ったことは、
そもそも「多様性」ってなんだろう? 何が多様なんだろう?
ってことです。
以下、調べた引用。
多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。
また、diversityとは、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること、とされている。(wikipedia)
そこから、じゃあ私が思っているのは何の多様性なんだろう〜、ということで
私が、多様性と聞いて思いつくイメージを挙げてみた。
文化の多様性、価値観の多様性、性別の多様性、アイデアの多様性、、
なるほど。私が思ってる「多様性」っていうのは、大小は問わないけれどある社会の中での人間の多様さなんだってことまでが分かった。
そこから、じゃあ、何でこの「多様性」は大事なんだろう?って考えてみた。
私が思いつく限りでは3つの考えが生まれて、
① 他者を認め、自分が認められるために「多様性という考え方」が必要だから
② 文明(時代?)が進歩するのには「多様性」が必要だから
③ 人類が生き延びるのに必要だから
①は、割と想像しやすいんじゃないでしょうか。
人間、みんなが同じなんてことはそもそも無くて、考え方も、生き方も、好きな食べ物から持っている理想までみんな違うんです。
「多様性を認めあおう」と言うことで、自分とは異なる他者にも寛容になれる。
「なんでそんなことしちゃうのかなあ?信じられない」とか「こんな異端な考え、受け入れられない」って思うことが減るってことは、
そう思われることも減るってことなのかなと。
異なっていても他者は認められるもので、自分もみんなと違うところがあるけれど認められるもの。
②(文明が進歩するのには「多様性」が必要だから)は、説明すると、
もし、多様性がなくみんなが同じ考えを持っていたりしたら、時代を動かすようなアイデアや技術って生まれてこないんじゃないか、ということです。
また各々が何か専門性(今でいう職業がそれに当たるのかも)を持っているからこそ、何かに特化しているからこそ、開拓されていく分野もあると思うんです。
みんながどの分野においても全く同じだけの知識を身につけて、全く同じ作業をしていたら、時代は進んでいかないと思うから。
当たり前のように聞こえるけど、多様性の元に社会の進化は成り立っているのかなと思ったからです。
③ (人類が生き延びるのに必要だから)は、
これは中学生のときくらいに評論か何かを読んで得た知識な気がするんですが、
たとえば、私たちがみんな、あるたった1つの米の品種を良いと信じて日本でそれだけを育てていたとするじゃないですか。
気候変動が起きたりして、その次の年からその品種が全く育たない環境になってしまったとき。米文化って終わっちゃいますよね。
人間も同じようなもので、多様性を排除し同一のものを作り上げる風潮を強めてしまうと、ヒトという品種が均一化されていく。
もし何か時代の大きな変動で、その均一化された人間が弱くなるような、不利益を被るような立場に立たされることになってしまったとしたら、、種の存続が危ぶまれます。
未来は誰も予想できないので、なるべくいろんな人間が社会にいたほうが、最終的には強くなるというか、人間という種を存続させるための生存戦略なのかなということです。
古びた曖昧な知識なので、間違ったこと言っていたらごめんなさい。
でも、私はこれ、理屈ではなんとなく理解できる気はするんです。
ここまでの①〜③を踏まえて、
「多様」の対極には、「均一」がいるってことも分かった。
「多様性」がどうして大事なのかも、ちょっと整理できた気がする。
でも、、これってよく考えると変な話ですよね。
昔は、人々はどこか多様性とは真逆の方向性を目指していた気がする。
ナショナリズムだって、一つの文化的共同体があってこその思想だし、
日本も、ずっと昔から人々みんなが天皇崇拝を行ってきた国だったりした。
日本史には全く詳しくないから適当なことしか言えないけど、今までは天皇に反対するような意見って無理矢理にでも排除されてきたりしたんじゃないでしょうか。
「多様性」とはかけ離れた、一律の価値観や文化が、国や政党や集団などの「共同体」を形作ってきたのだと思うと、
共同体の中で生きていくしかない人間が、共同体のつながりを薄れさせる「多様性」を求めるのってどうなんでしょうか。
そう思うと、多様性って行き過ぎると共同体として上手くやっていけない時もあるんじゃないか?
たとえば、ある問題について多様な人が集まって話し合うとき、お互いの持っている知識があまりに凸凹すぎたら、それをつなぎ合わせたり補完し合うのに時間を割かなければいけなくなってしまう。
どんな立場の人も納得できるような答えだって、そこにある立場が多様であればあるほど見つけることは困難になる。
みんなで共有できる「当たり前」の数が少なくなって、考慮や配慮しなければいけないことが増える。
他にも、前に先輩が話していた例で極端だけど面白いなって思ったのは、
たとえばクラスのみんなが習字で「赤」っていう字を書くとき、それがどんな書き順であっても、ちょっとくらい歪な字であっても、それを書いた人が「これも『あか』です」って言えば、それは「赤」という字として認められる。
こういった多様性はよくあることだ。
けど、誰かがたとえば「青」って書いたとして「これは『あか』です」って主張するのは、なんか違くない?
いくら多様な価値観を認め合おうと言っても、
「青」を「あか」と認めてしまったら、私たちの言語常識が破綻しちゃって、上手く機能しなくなる。
なるほど、行きすぎた多様性っていうのが社会にとって不都合なものになってしまうということも、よく分かった。
でも、あくまでここに挙げたのは極端な例です。
「多様性はどこまで許されるのか」「どのように線引きをしたら良いのか」という実際問題は、もっともっと複雑なんでしょう。
そう思うと、何もかもにおいて「多様性を波及させるのは良いことだ」と主張するのはやっぱり違う気がしてきました。
、、というのが、今回の私の見解でした。
今までずっと、私は闇雲に良いと信じて使っていた「多様性」だったからこそ、こんな裏側があったんだなあって思って冷静になった。
そういった私の発見をきっかけに、
みなさんも何か考えてもらえていたらとても嬉しいです。
それでは!
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