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「学問」は「聖域」で行われているわけではない

世界を席巻しているウィルスに関して、「科学」とか「学問」の「専門家」なる人々の意見が次々と出されているけれど、そのことに関して、人々が誤解していることがある気がする。

例えば、感染症の専門家と呼ばれる人がいたとして、その人が世界に存在している全ての感染症に関する全ての最新の情報を知っているとは限らない、ということである。

よく考えてみれば当たり前のことなのだけれど、「内科」のお医者さんが、「内科」に属することに関して最前線の全てのことを知っているわけはない。詳しいところもあれば、よく知らないところもある。一般の人から比べれば、だいぶ詳しいから、お医者さんとして仕事をしているわけであって、そのお医者さんに一体どれほどの見識があるのかは、個々人の力量による。

そのことが「学者」という肩書になると忘れられる傾向があると思うのだけれど、学問でも同じ。ある学問の専門家だからと言って、他の学問のことまで何もかも知っているはずはない。全知全能の人などいないのだから、そんなことがあるはずがない。

ある「学問」の、ある「専門」の、ある「立場」の人が、考えると、こういう意見になる、というだけなのだということを、理解しておくべきだと思う。

私は「独立研究科」と呼ばれるところに長らくいたし、私がやっていた学問の性質上、そういう学問内部での「立ち位置」、あるいは、学問間での「立ち位置」というものを意識せざるを得ない状況だったから、そういうことが身に沁みている。

通常、大学では、文学部の上に、文学研究科があり、法学部の上に、法学研究科があることになっている。それは、つまり、ものすごく単純化して言うと、文学研究科の人は文学(だけ)の研究をし、法学研究科の人は法学(だけ)の研究をすることに、組織上、なるということだ。だから、そういう場所から生まれることが多いのは、文学だけに詳しい人とか法学だけに詳しい人とかであって、文学にも法学にも詳しい人というのは誕生しにくい。

そのことが問題視されたことで、「独立研究科」なるものができた。独立研究科というのは、(実態はどうであれ)学部から独立しているとされる研究科のことである。1つの学部に接続された、1つの大学院という形になっていないということ。だから、いろんな学部を卒業した学生がやってくるし、いろんな学問分野の先生が混在している。

普通、文学研究科の中には文学部に属する先生しかいないが、独立研究科の場合には、同じ研究科の中に、文学の先生も、言語学の先生も、社会学の先生も、環境学の先生もいる、というような状況になる。

こういう研究科の形にも、もちろん、たくさん問題はある。でも、私がそういった、良く言えば「多様な」、悪く言えば「混沌とした」研究科で学んだことも多い。

全く違う学問分野の先生たちが話しているのを聞いていると、同じ事柄に関して、こんなにも意見が違うんだなということが、よく分かる。ある分野では「Aである」と言われていることが、他の分野では「Aでない」と、全く逆のことが言われている、などというのは、普通にあり得ることなのだ。

「ある学問分野での常識は、他の学問分野での非常識」という意識を刷り込まれたと言っていいかもしれない。

他の学問分野の人と議論するのは、宇宙人と会話するようなものだ、と笑。

逆に言えば、その人がどういう主張をしているのかによって、その人の学問の中における「立ち位置」が分かるということにもなる。

だから、その研究者の立ち位置によって、絶対に言えないことが出てきたりもする。私のような、大学に所属してはいても、いつクビを切られるか分からないような下々の身分の人は、何に対しても誰に対しても義理立てして発言する必要はないので笑、こういう好き勝手なことを書けるわけだけれど、立場が上の人ほど、そういう言えないことが増えていく。

学者の先生だから、真実を述べている、などということは、断じて、ない。

今回のウイルスの件に関しても、それぞれの専門家の意見は、その専門家の学問分野での、その専門家の立ち位置からの意見なのだということを、肝に命じておいたほうが良いと思う。

いろいろな疑問が投げかけられている「日本の感染者数や死者数が他国に比べて少ない」ということや、「感染者数が増えつつある」ということに関しても、意見が様々あるけれど、私たちの目の前にあるのは、現在、そういう数字が出ているということ。そういうデータがあるということ。

そして、そのデータが正確である保証はないし、そのデータの解釈の仕方も多数あり得るということ。

流行が遅れているのかもしれないし、日本人が感染しにくいのかもしれないし、検査数が少なかったのかもしれないし、医療システムがしっかりしていたのかもしれないし、何かが隠蔽されているのかもしれない…etc.

データは1つでも、その解釈の仕方は無限にある。

太陽が地球の周りを回っていると言われていたのに、後で、地球が太陽の周りを回っている説に変わったのも同じこと。地球にいる私たちは、昔から今まで変わらず、ずっと「動く太陽」を見続けているわけだけれど、その「動く太陽」という目に見える現象の解釈の仕方が変わったのである。

その現象の解釈が変わるまでに、多くのことがなされたと思う。私たちは、常にいろんな制約を受けながら生きていて、誰しも、多かれ少なかれ、今の時代の制約の中でしか思考できない。だから、天動説が唱えられていた時代に、地動説を唱えた人は、頭がおかしいと思われたに違いないし、完全に何ものからも自由に、そのままの事実を見ることはとても難しい。

真実に辿り着くためには、いろんなデータを集めていって、吟味に吟味を重ねるしかない。

私たちには、知らないことがいっぱいあるのだから。

私の学部の時の恩師は、最初の授業で「『無知の知』とレポートに書いたら、その瞬間に落とします。正確には『不知の知』です」と言っていて、当時は、正直、そんな細かいこと、どうでもいいじゃないのーと思っていたし、今でもよく分かっているか分からないけれど、でも、その「不知の知」、つまり、「自分が知らないことを、その通りに知らないと思う」ことが、大切であるのは変わらない事実。

真の研究者というのは、「知らない」ことに向き合い続ける人のことだ。
私はもう研究の道を歩むことはないけれど、その「知らない」ことに向き合い続けるという態度は、一生、私の中から消えないと思うし、消さないようにしていきたいとも思う。

今、研究者だけでなく、私たちの多くが、安易な結論に逃げることなく、どれだけ「知らない」ことに真摯に向き合うことができるのか、そのことが試されているのではないかと思う。

という、私の立場からの意見です笑

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