見出し画像

青春とはなんだ? ―高校編 その2

(前回のつづき)

あるとき、黒い学ランに身を固めた柄の悪い連中が正門付近に現れた。
7、8 人はいる。穏やかな話ではなさそうだ。

もし誰か先生が気づくなら大騒ぎになるだろうし、警察沙汰にだってなりかねない。そこで私たちは急いで相手の数に見合うだけの人数を揃え、正門に向かった。

学校の前は多摩川の支流になっていて、土手道が川に沿って続いている。
最寄りのバス停からはこの土手道を歩いて生徒が登校するのである。
正門を出てこの土手道を横切るとそのまま河原に下って行ける。
葦だのススキだのが生い茂っていてうまく姿を隠してくれるため、私たちは学校を抜け出してはここでよくタバコを吸ったものだった。


この黒い学ランの一団は同じ学校郡に属する3校のうちの一つ、 F 校の連中だった。

彼らが「決闘」目的で来ているのは明らかだったので、私たちは取り敢えず彼らを案内して河原に降りることにした。

普通こうして複数のグループが喧嘩のために結集するときは、まず互いの力量関係を比べ合う。
事前に重要情報のやり取りをすることでしなくても済む不要な決闘を未然にキャンセルできるわけである。

そのため、両者の背後にどんな人脈があり、どんな組織が控えているのかを探り合う。
俺たちの後ろには何処の学校の誰それさんがいるだとか、どこどこの誰さんはオレの先輩だとか、どこどこの高校とは同盟関係にあるだとか、◯△暴走族の何某を知っているとか、
結構ハッタリも多いのだが、こうした「重要な情報」を交換し合うのである。

すると、両者共に背後や上の方で誰かと誰かが繋がっているのがわかって、結局は「決闘」に至る理由も必要もさしてないことが判明し、急遽取り止めとなることもある。というか、かなり頻繁にある。

幸か不幸か、この時の両者には上にも後ろにも繋がりはなかった。
そこで、乗りかけた船ということで、事態は「真昼の決闘」へと進展して行く。

情報交換の際に彼らの様子が「フツーでない」ことに気づいた。

目が異様に据わっているのである。
呂律が回ってないヤツもいるし、喋る口からマルサン特有の、シンナーのように鼻にツンとくる臭いではなくトロリと甘い芳香が漂ってくる。
― コイツらマジ、ラリってる。きっと「マルサン」をしこたまやってから来たのだろう。


ここでマルサンについて説明しておこう。

当時、シンナー遊びは大きな社会問題だった。
シンナーを吸引すると中枢神経を損なうため濫用していた多くの若者が病院送りになってリハビリ生活を余儀なくされていたのだった。

私たちは、かなりどこででも手に入ったシンナーではなく、通称「マルサン」という接着用ボンドを使っていた。
シンナーと比べて値段もかなり張るのだが、使い勝手も、「味」も極上だったので、私たちはバスで立川駅まで出て、そこからわざわざ青梅線に乗って昭島駅に行き、徒歩 10 分ほどの所にある小汚い文房具店でマルサンを調達していたのである。

なので問題はむしろ物資の調達ではなく吸引場所だった。

多くの青少年が犠牲となるこの社会問題ゆえに、当然といえば当然なのだが、周囲がかなり厳しい目を持ってこうした非行少年少女たちを監視していた。

だから私たちもあまり豊かとは言えない知恵を寄せ合って、両親が共働きの仲間の家とか、神社の裏山とか、プライベート・テニスコートの更衣室とかを転々とした。墓地に入り込んで誰かさんの墓石の背後とか遊んだこともある。

決して同じ場所を連続して使わない。
ピッチャーのローテーションのように、これだけは規則的に、時と場所を変続けてマルサン遊びに精を出していた。

しかし、この「禁じられた遊び」にも終止符が打たれる時がやって来る。


ローテーションでその日は墓地に行くことになった。
よく晴れた日の夕方だった。もう冬が近かったのだろう。

あっという間に日も暮れ、あちらこちらに樹々が林立するこの墓地の中でもとりわけデカかったこの墓石の裏側に座ると、人通りのなくなった参道からは全く隠れてしまう。

私たちは一箇所にかたまって墓石に寄りかかってマルサンを吸っていた。

仲間の話が次第にトンチンカンになり、全く筋が見えない多方向に進み始めたとき、私はいつの間にか墓石の下に埋まってしまったのである。

不思議なことに危機感はなかった。

ただ、( ヤケに窮屈だな、墓の中って )、と漠然と考えていると次の瞬間、身体はまた外に出てきていた。
しかし今は墓石の裏側ではなく戒名などの書かれている正面側にいる。


その時、今思い出しても鳥肌の立つような奇妙な体験をしたのだった。


ほぼ仰向けになって横たわる自分の身体を 2 メートルほど上から見下ろしているもう一人の自分がいるのである。

横たわっている身体はあたかも死んでしまったかのように動かない。
すると今度は、その死んだように動かない身体の胸のあたりからひとまわり小さなさらにもうひとりの私が抜け出ようとしているのである。

「キャスパー」みたいに半透明の私だった。

まず頭の部分からすっと出てくると、キャスパーは場所を確認するかのようにゆっくりと周囲を見回した。
この時点で、私は三人いたことになる。
私であるはずの肉体をもって墓石の前に仰向けに横たわっている私と、上から私を見下ろしている私と、肉体の私から抜け出ようとしているキャスパー状態の私との三人である。

説明はできないが、そのとき「上から見下ろしている私」は、そのまま「キャスパー状態の私」が「横たわっている私」から抜け出してしまったら、私は死んでしまうのだということを知っている。
だから、抜け出そうとしている「キャスパーの私」を、抜け出てしまう前になんとか制止しなければならない。
「横たわっている私」は、魂が抜け出てこのままでは死んでしまうというのに、それに気づきもせず身動きひとつしない。

と、その時「上から見下ろしていた私」が、「横たわる私」とひとつになる。
少なくとも何が起ころうとしているのかを察知できるようになった「横たわる私」は突然目を見開く。
その時にはほぼ上半身が身体から抜け出してしまっていた「キャスパーの私」が急に振り返り、目だけを見開いて「横たわっている私」を伺い見る。

目と目を合わせた私たちは、互いの姿を見て同時に驚愕の表情になる。

次の瞬間、「キャスパーの私」は驚愕の表情を浮かべたまま、抜け出そうとしたその狡猾な動きさながらに上半身を反転させると素早く、「横たわる私」の中に戻って行ったのである。

正直、これは怖かった。

その時ただの傍観者の立場で中空に浮遊していた私は、この状況に関して何の手立てもすることができないまま、いつの間にか冷たい地面に横たわっていることを自覚した。

すぐに動くと心臓が止まってしまうような感覚に襲われる。
ちょうど金縛りにあったときのように、硬直してしまった身体の末端部から、まずは手指、次に足のつま先、次に手先と、ほぐすように、ゆっくりと動かして「自分自身」を取り戻していったのである。

この体験の直後はもちろんのこと、その日は夕食も食べる気にならず、二、三日は全く食欲が失せてしまったのを覚えている。


だがこの体験の教訓は、暗愚な私の精神的暗闇を切り裂く稲妻のように明確に私に伝わった。

「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」
覚せい剤濫用に強烈な警告を発し、人権問題にも発展したあのキャッチコピーのように。

そう、「禁じられた遊び」をあのままずっと続けていたら「私」はもう「私」ではなくなっていただろうし、中枢神経どころか、魂も、生命も、私という存在のいっさいを失ってしまっていたことだろう。


思えば、これまでに立たされた幾つもの岐路で「コオロギのジミニー」はいつだって行く道を指し示してくれた。
あの静かで穏やかな声で諭してくれた。そうだ、心にはいつだってこの声があった。

ただ静まって耳を澄ましさえすれば、あの囁くような小さな声が聞けたのだ。
時にはチクチクと、時にはそっと優しく良心を刺激してくれた。

ただ、この時期の私はあまりにも遠く迷い出てしまっていた。
あまりにも長い間、ジミニーの声に耳を塞いでしまっていた。

だからこそ、こんなショック療法で私を覚醒する必要があったのだ。

(その3に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?