見出し画像

言霊について

「言霊」、手元の辞書を見ると以下のようにある。

言霊 ( ことだま ) とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。
発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。


最近、言葉についてよく考える。

そもそも人と地上の他の生き物との違いを決定的にしているのが、
人の持つ言葉と、言葉を駆使して社会や文化を築き上げる能力である。

思えば、大昔の、あるいは中世の、地理的にも全く隔たった人々の言葉が、
「書き記された言葉」として時空を超えて私たちに少なからぬ影響を与えてくれるのも超自然的な現象である。

つまり、私たちが享受しているこの現代は、私たちの先祖たちが言葉のやり取りを通して生み出した文化が他の言葉を用いる異文化と交わり、地域社会となり、代々受け継がれ、時には一足飛びに進化し、時には停滞し、時には後退し、を繰り返して今に至っている。


ここに聖書の一節を引用する。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこの光を悟らなかった
( ヨハネによる福音書 1:1 - 5 )

新約聖書ヨハネによる福音書第 1 章の導入部である。

ヨハネによる福音書にある、このあまりにも有名な冒頭部は、実はユダヤ教やイスラム教の経典である旧約聖書とキリスト教経典の新約聖書とを橋渡ししている実に重要な箇所である。


このヨハネの福音書の冒頭部の対極にあるのが、旧約聖書の冒頭部を飾る「創世記」の第 1 章だ。両者は、時空を超越して、一つの堅固な信仰の礎を私たちに与えてくれている。

はじめに神は天と地とを創造された・・・
・・・神は『光あれ』と言われた。
すると光があった・・・神は光を昼と名づけられた・・・
神はまた言われた・・・そのようになった・・・
( 創世記 1 章 )

聖書には、神は文字通り「言葉によって」万物を創造されたのであり、
何よりも、その創造の力の源である「言葉」を人に与えられることにより、
地のすべての生き物を統べ治める権能を私たち人類に与えられたのだとある。


聖書にあるこの「言葉」こそ、私たち日本人の言う「言霊」である。

そして言葉をこのようなものとしてとらえ、言葉に宿る霊あるいは魂の持つこうした霊的な力を込めて言葉を使うことにより、
発した言葉どおりの結果が現れるのを見届けるのである。

肉体的かつ物理的な制限や束縛を超越して、いわゆる神の領域に入ることさえもが可能になるわけである。
そこに信仰の拠り所を見つける人もあれば、哲学や科学を、また芸術をより深く極める可能性に至る道筋を発見する人もいる。

こうして見ると、言語の違いこそあれ、世界中のそれぞれの地域でまず言語を源とした社会が形成され、特有の気候や土壌が加味され、独自の文化が生まれ育ち

そんな中で人間的限界に縛られ、厳しい自然と闘いながら、そうした逆境に打ち勝つべく地域特有の宗教が生まれ、世々代々に受け継がれていくというのも深く頷ける話ではある。

この記事が参加している募集

#最近の学び

182,163件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?