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ACT.27『九州グランドスラム 7 死ぬわけにはいかない!南国に向かえ。』

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 どうにか佐伯駅に戻る事ができた。最初から駅構内の電源など使用せずに、こうして佐伯から素直に宮崎方面に向かう特急に乗車していれば良かったのだ。
 乗車したのは、787系による特急『にちりん』だ。日豊本線では伝統と人気の看板を背負って走る特急列車であり、現在も車両をグレードアップさせつつ走行している。九州では個人的に先に廃止された『有明』に次ぐ伝統の列車だと思っているのだが、それに関してはどうだろうか。
 写真は咄嗟に撮影してしまったが、こうして不意にブレてしまっても787系はメカメカしいかんかくが格好良いと思ってしまう。自分の居住地域である関西では南海電鉄のラピートがロボットや近未来性を感じさせる勇壮なデザインだと他府県民や海外の方、そして現在も沿線の家族連れに人気な特急列車だが『メカ』『ロボット』というキャッチーなデザインの鉄道車両ならこの787系も全然負けていないと思う。
 それは置いておいて。乗車していこうか。

褪せない潮流

 787系に乗車するのは、実を言うとはじめてだった。何回も自分の後ろや自分の居る場所を追い越され追いつかれ…とされてきた車両だが、こうして乗車している時間というのが自分では今や違和感のように感じるから不思議というか何というか。
 写真は787系のセミコンパートメント、という座席区画だ。乗車した時間帯というのはGW期間の夜…だったのだが乗客は殆ど乗車しておらず、車内観察には持ってこいな時間帯や区間だったのだったが乗りっ放し、振り回されまくり、な自分にはそんな余裕や気持ちもなく自由席を目指して動くだけだった。
 最初、この記事で使用する為にこのコンパートメントの写真を記録した際には『グリーン車』だと思って記録した区画だったが、実際には指定席車両として乗車ができるのだという。なんという贅沢か。

 自動ドアが写真に被ってしまったが、787系のコンパートメント区画を通路含めで撮影。
 この時は誰もこの区画を利用していなかった。それもそのハズで、この乗車している『にちりん』は宮崎空港にも行かねば更には最終便間近の列車。当然そんな列車ともなれば乗車しているのは僅かな乗客…か、特別な区画には閑古鳥と空気が乗車しているのみである。
 きっと、一昔前の自分ならはしゃぎ回って787系のこの車内を撮影したのかもしれない。しかし、特別な区画に関してはこのコンパートメントを撮影するのみに終了した。
 しかしこうしてコンパートメントを眺めてみると、787系とはこうも色褪せない電車なのだと思わせられる。新幹線開業で花形の仕事から退いたのはかなり昔の話になってしまう…が、こうして放つ輝きが褪せていないのは素晴らしい。

 自分の乗車した普通席。この区画は指定席や自由席として扱われている区画だ。787系の標準的な座席と考えて良いだろう。
 車内には真ん中にラゲージスペースがある。783系以降、九州の特急列車は『真ん中』を拘った設計にしているのだろうか。そういった点が現在では気になってしまう。
 こうして787系に乗車している…だけでも、非常に心地が良いというか。特別な区画に座らずとも良い気分が味わえる。特殊な天井に、飛行機のような荷物収納の『ハットラック式』のケースも素晴らしく特別な時間を演出している。
 かつてはこの787系に『ビュッフェ』カウンターがあり、787系の生涯に於ける花形運用である特急『つばめ』運用では乗客の憩いの場となっていたそうな。そういった場面も見てみたかったと切に願ってしまう。しかしこんな時間にもしビュッフェ連結車両が走っていても絶対に営業してくれないだろうが。

 (解像度が悪すぎるのを許して)自分の着席した風景はこのようになる。
 独特の天井に車内案内表示器。そして、車両の妻扉に打たれし787のロゴが素敵だ。
 自分はこの場所でファミリーマートで買ったプロ野球チップスを開封など。結局誰を引いたかは忘れたが、同じ選手を引いて辟易していた事…だけは確かだったかもしれない。疲れをジョイント音に委ねて、100キロ以上と知人と話し合った都城までの旅路までのカウントを切った。あと少しだろうか。
 結局、787系の車内はじっくり観察しなかった代わりに座席の机に記された車内案内だけを眺めた。
「あぁ、787系ってこんな電車なんだ…」
と。そういった思いだけで、今は充分だった。
 乗車中だったのは、車両にモーターを搭載せずに走っている『サハ』と形式称号で呼ばれている車両だ。
「ガタンっ!ガタンつ!!ガタガタごとんっっ!!」
突き刺すように地面から叩きつける車輪の音を、溶けた脳で反芻しながら数える。羊の数を数えれば寝られる…というが、疲れて列車に乗車しているとこの状態でも寝られるかもしれない。事実、かなり疲れの頂点にまで来ていた。

西九州新幹線リレー運用に入る787系 ※2023年撮影

 787系という電車は、外見を見ているだけでも本当に気になっている電車だった。
「いつか乗ってみたい」
と思っていたが、こうして乗車が叶ってしまうと何か複雑な思いにすら駆られる。
 特に、かなり前の話にはなってしまうが北海道発の旅バラエティである『水曜どうでしょう』のどうでしょう軍団乗車に関しては自分の787系に関する憧れを高めたと言っても過言ではないだろう。
 現在は九州のあちこちを走り、九州の生活生命線を担っている787系であるがその頃は爆笑の思い出に寄り添った電車という思い出も強かった。番組に関しては90年代の作成だった為、787系はもちろん花形の『つばめ』運用。今回では全く触れていないが、個室グリーンに軍団で乗車し、鹿児島方面を目指していた。
 その際には車内販売やビュッフェの現役稼働…など、鉄道最後の黄金時代が垣間見えていた。787系は鉄道が華やかだった時代の最後の傑作車両だったのかもしれない。
 どうでしょう軍団は個室内でグッズを買い漁り、車販食品を食いまくり、とかなりの時代謳歌をしていたが今では絶対にそんな事も体感できないだろう。旅を幾度も重ねた自分だからこその憧れがそこにはある。
 最後になるが、自分にとってのJR九州傑作車両…といえばやはりこの787系を挙げるだろう。外装デザイン、今回の乗車。そして、ハットラック式荷物棚の近未来さなど。
 883系・885系とその後も同じようなテイスト…での特急電車が誕生していくが、自分の中では787系に及ぶ予感がしない。
 787系は色褪せない時代を運び閉じ込めている気がする。

巡礼・脱出

 『にちりん』に乗車中に、上岡・直川…と通過し、遂にあの断念した『宗太郎』に差し掛かった。
 この写真に映っている駅が宗太郎である。恐らく、明かりは室内灯で照らされた上でこの明るさになっているのだろうが絶対にこの駅に関しては夕方〜夜以降に下車しても駅寝などをする自信はないように思った。
 そして、この『宗太郎』から先の市川・北川・日向長井・北延岡…に関しても列車本数は脆弱な状態に晒されており、佐伯・大分方面に関してはこちらは1日2本。延岡・宮崎方面に関しては1日1本という超脆弱な状態で日々を過ごしている。昭和の時代から、鉄道幹線として『特急街道』とまで呼ばれた路線の現状に関しては余りにも寂しすぎるだろう。
 かつてはこの『重岡〜宗太郎〜延岡』に関しては普通列車の運転があったのだという。しかしう、JR九州が見かねた(この言い方で良いのか)のか、遂に本数にメスが入り1日合計上下込みで4本という貧弱性になってしまった。
 現在に関しては、この1日4本で走る普通列車に関しては東京・大阪の都心部もビックリの『特急列車の間合運用』として787系の回送運用を客扱いの上充当させているようだ。この現状を見ていると、どうやらこの区間には『列車を仕立てるのすら面倒』という本音すら垣間見える。その普通列車に関しても、乗客の乗車区画は前部1両のみ、に限定されているようだ。自分もいつか挑戦したいが、よほど計算しなければ難しいだろう。

 秘境駅…としての到達が不可能に等しい宗太郎駅。実は、重岡駅から先のセットで見てみると『しげおか そうたろう』と人名が必然的に成立してしまう面白さもある。
 そして、実は『宗太郎』というこの特殊な駅名も実は人名から呼び込んだそうだ。
 人名を使用した駅名としてはJR限定…で考えると伯備線の『方谷』が浮かぶが、この『宗太郎』も集落で名前を残した偉人の人名のようだ。噂によれば、この『宗太郎』という地を信号所から駅に昇格させ、駅の設置に貢献したのだとか。しかし、駅の現状は到達不可能なのは突っ込んだら負けなのだろうか…
 こうして、自分は特急列車の車窓からではあるが秘境・鉄道の存在を失った集落から脱出したのだった。

夢を浮かべた大地に

 列車は、佐伯を出て延岡に到着した。日豊本線の宮崎県に出て最初に停車する駅である。
 しかしここまで本当に長い旅路だった。現在いるのは、延岡…という事でまだまだ目的を掲げる都城までは先の先になってしまう。
「鹿児島に向かいたい」
という自分の私欲で都城を選択した事をここまで悔やむ事はなかっただろう。
 延岡に到達すると、あの重岡で見た秘境ぶりが嘘かのように輝いていた。そして、通勤電車の灯りが見える。一体何があったのかと思ってしまうくらいには。そのくらいに豹変した状態の都市であり、自分にとっては
「本当に同じ線路で繋がった街なのか?」
という感覚すらある。
 気分としてコレが適切なる表現になるかは別にして、何処かからドラえもんの用意したひみつ道具の中を列車で通過して異世界にやってきた気分になる。
 そのくらい、自分では宗太郎超えというのは感覚として身体に染み込んだ現象であり体感した感覚は面白かった。今回は特急での通過となったが、コレを本数狙いに普通列車で挑戦するとまた異なった感覚になれるのだろう。

かつて高千穂鉄道のTR-100形として活躍した阿佐海岸鉄道のASA-303形。現在は阿佐海岸鉄道での生涯も終えたとされている。※2020年撮影

 延岡からはかつて、高千穂線という鉄道路線が伸びていた。国鉄時代。遡れば、日之影線として高森線との結節も検討され九州の真ん中を横断する第2の鉄道として検討されていたのだが、高森線・高千穂線双方での建設で出水事故が発生。コレにより双方の路線結節は断念してしまった。
 コレにより、延岡からの日之影鉄道横断計画は途絶えたか…に思われたが、鉄道は高森まで接続する事なく高千穂まで繋がった。
 国鉄時代の自動車発達時期には『赤字83線』へのカウントも取られ廃止も間近に迫ってしまったものの、平成元年には第3セクター鉄道に転換されて『高千穂鉄道』となった。その後、この高千穂鉄道が延岡から先の宮崎県の数少ない私鉄として機能していく…のだが、
 平成20年の台風災害復旧を目指した段階で廃線となってしまった悲運の鉄道だ。車両は現在、そのn廃線跡を活用した高千穂側での『高千穂あまてらす鉄道』という会社が業務を継承しているようだ。旧・高千穂線時代からの急峻な自然を活かした観光や鉄道に触れる体験などを多く開催しているそうな。
 自分も今回の旅で検討をしてみたが、遠い場所だったので行くのを断念した。次回に回し、台風と共に消え去った悲運の鉄道を参詣しに向かおう。
 現在、車両は『〜あまてらす鉄道』に継承された分と写真に掲載した徳島県・阿佐海岸鉄道で活躍したASA-303形がその生き証人だ。しかし、徳島県へ折角譲渡された高千穂鉄道の車両も今度は路線のDMV化で線路を走行できなくなり役目を終えたも同然になってしまった。今後が気になる。
 延岡市は、そんな夢を詰め込み高森・阿蘇を経由して肥後の国への鉄路の郷愁を誘う為の先人たちが苦労を重ねた場所だったのだ。

南国への到着

 特急『にちりん』の旅が終了した。宮崎に到着し、『にちりん』は南宮崎へ向けて最後の道を歩んでいく。
 自分はこの駅から西都城へ向けて歩む為、この駅で下車をした。『にちりん』はこの駅で5分ほど停車するのだという。もし、佐伯より更に手前から乗車していれば、この少し長く停車している時間でこれまでかけた時間や列車内で過ごした時間でも思う事ができるのだろうか。

 787系のデザイン…というのだろうか。停車中に、車両のディティールを改めて観察してみる。
 車両にはかつて伝統の名残として描かれた『つばめ』が舞っている。そして、787系といえば…な緑・赤・青・黒のロゴ。コレも個人的には787系を想起するに大事なシンボルだ。
 現在では、787系自体は『九州地区を走行する全体的な役割』を担わせているJR九州だがこの宮崎近辺では特にその印象が濃い。何かメタリックなイメージすらも感じてしまう…が、全てこの787系が起因しているのだろうか。

 787系のロゴマーク・方向幕部を観察してみる。先の南宮崎向けてラストスパートを切る手前、こうして撮影時間が残っていたのが幸いし様々な写真が撮影できた。
 行き先表示は方向幕式になっている。他の883系や885系に関しては方向幕式でも複雑な機構をしていたり、LEDでも情報量が多かったりと大変な状態になっているが、787系ではそんな事もなさげだ。逆に、花形運用から外れただけで汎用性に馴染むだけの最低限だけで済ませているのが好感といえる。
 そして、現在の787系で目を引くデザインといえば『つばめ』が舞って群舞を構成している7羽のデザインだろう。
 このデザインは、福岡・佐賀・長崎・熊本・宮崎・鹿児島・沖縄の九州7県がモチーフになり、そして中心を模る凛としたツバメはJR九州として核を表しているのだそうだ。非常に学習になる。そして、スタイリッシュなデザインだ。
 787系の栄光…として九州に飛来したつばめの伝統を、分散後も上手く活用し活かせていると考えさせられた。

 南国・宮崎に下車して食事を探しに…と試みたものの食事にあり付けるはずもなかった。地鶏屋のようなものが営業しているような情報を発見したが、閉店まであと少しな状況だった。結局何も食せない。
 駅構内の『宮崎牛フェア!』『美味しいマンゴー!』と見えても、自分には只々胃が収縮していくだけにしかならない。あぁ、我が内蔵よ。食事が供給されるべき時に供給されないのをお許しください。
 と、そんな環境で。宮崎は雨が降っていた。延岡方面でも薄らに車窓を何か水滴が叩きつけていたが、宮崎到着後になり本格化した。しかし、写真に撮ってみると何かそんな苦しかった環境。折り畳み傘を苦しめにさした環境も今では「あぁそんなものだったか」程度に済んでしまうのだから時間とは恐ろしい。画面越しには幻想的な駅の光景が広がっていた。

 この宮崎駅の近くには、保存されている蒸気機関車がいるのだという。そして、大阪からの交通機関も調べるとカーフェリーが出ていたので次回の九州入りは南国方面を中心に周遊しても良いのかなと考えさせられた。
 そして、この宮崎には国鉄時代に運航拠点として蒸気機関車の時代に『宮崎機関区』なるものが配置されていたようだ。もし、蒸気機関車の保存がされているのならそういった事が背景なのかもしれない。
 晩年は大型蒸気C61形が東北から流転してこの地を埋めた…という場所であったが、それまではC55形・C57形といったパシフィック形機関車たちが戦後にひしめく聖地だったのが宮崎機関区の歴史だ。蒸気機関車は昭和49年まで宮崎で尽力したが、宮崎に鉄道が通った大正初期からこの地から機関区・客車・貨車の拠点はこの『宮崎駅』に存在し集中していたという。
 現在は飛行機・高速バスに主権を譲った感覚すら残ってしまうが鉄道主役だった頃の宮崎というのは一体どのような場所だったのだろうか。

 雨が降る宮崎の駅に、日南線の最終列車が入線する。どうやらこの列車が油津までの最終になるそう…だ。
 そりゃあ。こんな時間に来て「地鶏食わせて」「チキン南蛮だ」「マンゴーをだね」なんて間に合うわけがないですってば。
 駅員さんが決死で案内を告げる。自分としてはこの駅に短時間しか滞在しない事になりそうだった…が、感覚としては『鉄道が走っている沖縄県』のような感覚に近いかもしれないと思った。
 もう少しこの地域に通い。そしてこの地域を学べば何か考えが違う方向に進化するのかもしれないけれど、自分の中では
・鉄道での到達難易度が高すぎる
・飛行機が主権
などといった要素の強さに関しては南国・離島要素が強い…というか第2の沖縄のようなポジションになってしまっている。

 再び。このサボに遭遇。
 結局これに関しては何処でもやっているようで最早『幕さえ面倒』といった会社の何かさえ見えてしまうような気がした。笑うしかない。
 しかし、油津とは何処なのだろうか、自分でもこの時は全く分からなかった。
 が、調べて時刻表を引いてみると宮崎から志布志の方に向かっていく日南線だと後に知った。まだ自分でも知らない事はある…というよりか、南方面の九州に関しては全く知らなかった。

 写真を見て判明。幕を抜いている。
 ここまでしているのか。最早何処をどうすれば良いのか、何をしたいのか、何に対して経費を削りたいのか分からなくなってくる記録だ。
 車両に関しては南の九州を走っている車両に関しては置換え…新型…などの話は全く聞かない。そして皆々が平和に暮らしているイメージがあり、車両の年齢に関しても中堅層からベテラン層まで多くの車両が何に対して追われる事なくのんびり生きているイメージだ。このキハ40形にだってそんな感想を抱いてしまう。

 写真を見て驚く。(コレに関しては割と最初から)背後に電鉄ホテルが建築されているではないか。
 宮崎ってけっこうリゾートやビジネスやら手を加えてんだな…と写真を眺めつ考えてしまう。何処かでもJR九州は不動産でどうのこうの…?なんて話を聞いてしまうが、JR九州、案外こうして副業に関しても非常に性が良いのかもしれない。
 そして、宮崎から鹿児島方面に関しては乗客確保の絶対的な特急券を販売して生命線を確保、とその先にも絶対的な余念が存在しない。
 同様の駅の階層上、または駅付近にホテルが付近建造の例に関してはつい最近だと新潟県の長岡で発見した記憶があるが、電鉄系ホテルのサービスとはどのようなものなのだろうか?
 そして、今回は時間なく訪問できなかったが宮崎の駅前にはJR九州が開発した独自のショッピング施設があるとの事。コチラも次回また行かなくてはならなさそうだ。

南国への旅路

 宮崎から、日豊本線の鉄路を再び進軍していく。普段であれば、この鉄路は高速バスや道路に対抗すべく奔走した特急たちの独占状態となっている街道…なのだが、自分の通過時間帯は深夜時間であったのでそういった類は営業終了していた。霧島神宮や鹿児島方面へのルートも担う大事な道なのに。
 この南国に来ても、乗車したのは817系電車だった。乗車した瞬間に圧倒的な里帰りのような感覚…というか、革張りの座席に倒れ込んだ瞬間に強烈な安心感を覚える。列車は西都城まで。この列車が丁度最後の乗車になる。

 この地域の817系の差異…といえば、817系の車体側面に貼られたCTのロゴマークの色味だろうか。青色のマークは初観測だった。
 緑色に関しては先ほどの熊本でも見ており、福岡は黄色が多い。赤は長崎…と九州の分割を担っているようだった。
 しかし、このCTマークに関しては鉄道に知識のある人間がはじめて見かけて
「あぁ、この地域に来たんだな」
と感じる程度の差異しかないのが現状だろうか。結局、こういったものに目をむける乗客は居ないだろうし、車両の管理タグ的な役割に近そうだ。
 ちなみに、この青いCTマークについては旅の当初宮崎なのかと思っていたが、鹿児島のCTマークだったらしい。同じ地域管理下にあるようだ。

 南宮崎に停車中の記録だ。
 時間調整…との事で列車が入ってくる。車両は気動車、日南線の車両だろうか。白熱灯の優しい光を照らして、静かな駅に入ってきた。
 既に南宮崎の駅に関しても車両たちは店終いの準備に入っており、中には翌朝の準備に備えて就寝している車両たちもいる。自分の中では、完全に到着の判断を誤ったとしか言いようがない。
 しかし、南宮崎のなんとも言えない国鉄調な留置線や駅の雰囲気というのは撮影や観察がしてみたくなった。次回の旅路ではよく見たいものだ。

 入ってきた気動車と、自分の乗車中の普通列車が並んでいる様子だ。
 車両の年齢は気動車と電車でかなりの年数が離れていそうだが、JR九州のこの周辺ではかなり平均的な光景になるのだろうか。
 自分の調べで後に知るのだが、宮崎にはJR九州の車庫はあっても…電車を整備する環境はないのだそうだ。車両は気動車のみを整備する事が可能になっているらしい。つまりは検査。車両点検に関しては非電化に限られと脆弱な状態になっている(この場合は最低限か)そうだ。
 今回は時間があまりにも遅く見ること叶わず…だったが、宮崎にこうして鉄道の整備拠点などが敷かれていると、機能が継続されていると。往時の蒸気機関車時代を眺めているようで実に昭和好きとしては気分が良いものだ。次こそは車窓から眺めなくては。
 後悔とようやく先を開拓できる安堵を抱えつつ、自分は817系の普通電車に再びの乗車をした。

 都城市に到着した。かつては寝台特急『彗星』などの行先で眺めた経験しかなかった行先だったが、まさか自分がこの市に降り立つとは考えもしなかった。
 宮崎の鉄道拠点、というのは宮崎とこの都城が拠点として扱われているのだという。宮崎は言わずもがな、飛行機からの鉄道結節。そして、都城は熊本へと鉄路が至る吉都線の入り口。宮崎県では日南線に次し規模の大きなローカル線だ。
 吉都線は都城市、都城から出ている路線…になるが、かつては日豊本線の旧線として鉄道のなんしょだったのだという。現在でもその語り草を幾つも残しているが、現在の山に海ありの線路には叶わないだろう。(景色含めて)

 都城市に関しては、正直な感想を出すとするなら『西都城』でも『都城』でも変化しないような気がした。
 ただ、駅員と常時目が合うという信頼性などを考えてみれば都城駅を選択すれば良かったかという後悔に駆られたが、結局は地図で調べてみると全く同じような土地構造をしている印象を感じ、最終的には
「何分電車に乗車しているか」
の差で決着が付いた印象にある。しかし、都城駅が吉都線の絡みもあって駅員常駐の駅だったのは大きかったろう。
 自分が下車駅として選択した西都城では、夜に下車したところ駅員の迎えがなく不気味な中改札を下車する事になってしまったのだから。

140キロ行脚〜終了

 熊本市街から都城市、という異次元の行路が終了した。正直な話、宗太郎越えを組み込んで夕方に突破というのが限界すぎた。そして、宗太郎越えについて調べていない自分の認識が甘かった。それに尽きる。
 翌朝は鹿児島県を目指し、遂に『グランドスラム』を九州で達成する。(沖縄県は小学生時代に訪問済み)鉄道幹線が通る都道府県に関しては全制覇といった感じになるだろうか。
 この西都城に関しては現在、立派な高架の駅舎が建造されている。はたまたその逆。都城駅は地平駅舎で現在も営業しているのだが。
 そんな西都城からも、かつてはローカル線が分岐していた。志布志線という40キロ程度のローカル線で、西都城駅が高架化されてからも数年程度は残存…したのだが、敢えなく分割民営化の前夜・昭和62年に廃線になっている。
 現在の西都城駅はそんな勢いを感じさる事はない…のだが、かつての栄華を象徴するかのように高架駅舎が現在では聳えているだけだ。
 志布志線自体は非電化路線で、車両はキハ10・20形などの1両の気動車を併結して運転したそうな。現在でも路線自体が残存していたら、どのくらいの本数でどのような車両が走行していたのか気になる。…無難にキハ40形だろうが。
 さて。いよいよここから先は本格的南国、鹿児島を目指し進んでいく。その先には憧れたものを見つけ、再び乗車し、記録にも挑む…
 見逃すなかれ。

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