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幼馴染の出産に、私は人生の価値を問う

私はこの人生において、基本的に出産しないつもりでいる。自分の子とは言え、十月十日のあいだ精神と身体を他人に明け渡すなんて考えられない。

自分自身の出産に対する希望の有無がはっきりしているので、幸い妊娠・出産に対する妬み嫉みはない。だから、大丈夫だろうと、だれかの幸せを一点の曇りなく祝えると信じていた。

幼馴染が出産した。彼女は、地元を出るまで人生のほとんどを共に過ごしてきた、友人とはまた違う、「幼馴染」としか表現できない大切な存在。彼女の母としての新たな門出と、愛おしく輝かしい命の誕生を、私は心から喜び、祝福した。

同時に、嫌な感情が横切った。全く、他人様の人生の大きな喜びと幸福に対してこんなことを思うなんて、我ながら最低過ぎて泣ける。

人生の価値はどのようにして決まるのか。人類の永遠の命題。

彼女がこの世界に新たな命を生み出す間、私は一体なにをしていただろうか。彼女がこれから家庭を築き、子を慈しみ育てる間、私は一体なにをするのだろうか。

悶々と考えながら、私は劣等感にずるずると引きずられていた。

今までもこれからも、彼女が家族、つまるところ他者と向き合うなかで、私は自分自身にしか向き合っていない。

どんなに私がキャリアを積んで、成果を上げて、「私はこれだけのことをやり遂げた!」そう言えるようになっても、結局私は彼女に敵わないのではないだろうか。

家族を築くその様を尊く思えば思うほど、自分のライフスタイルが悲しくなってくる。しかも、そう言いながら選択した生き方を変える気がないのだから更にどうしようもない。

そこに優劣なんてものはない。そんなことは理性では分かっている。けれども、いつか私に襲い来る虚しさを、考えずにはいられない。

きっとこの感情には、いよいよ完全に横並びでなくなる寂しさとか、いち友人でしかない私が家庭を持った彼女の人生における優先順位の中でどんどん下がっていることとか、そういう色んなものが絡み合っていると思う。

彼女は昔から、好きな人と結婚して家庭を持ちたいと言っていた。もしかしたら、着々と夢を手にしていく彼女への嫉妬もあるかもしれない。

いや、むしろ、問題の根源はこれじゃないか?

つまるところ、私が私自身の人生に満足をしていないから、よその芝生、しかも分かり易い幸せのカタチである結婚・出産を羨んでしまうんじゃない?

結婚して出産して子育てをすれば、私の人生の価値が保たれるなんて思わない。

そりゃ、異性との結婚・出産セット以外の選択に対して、「生産性がない」「価値がない」とかなんとか、人権意識も倫理も知性もないことを恥ずかしげもなく平気で言う人間はいる。

しかし世の言う「人生の価値」なんて私の知れたことではないし、価値基準は私の人生に対する私自身の満足度でいいじゃないか。それが満たされないのなら、一度立ち止まって自身について向き合い、人生になにを求めているのか考え、それを手に入れれば良いだけのこと。

ハッピーセットはひとそれぞれで、その中の一つに結婚・出産があるだけ。仄暗い感情に引きずられる暇があるのなら、私は私の満足のゆくハッピーセットを見つけよう。

それでようやく、私は彼女への出産祝いプレゼントを素直な心で探すことができた。

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