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ロボットと哲学⑦決定論と自由意志・終わりに(ロボットと哲学と人間)

前回は構造主義の立場から、換言すれば私たちの外側から人間やロボットについて考えた。今回は自由意志に対して懐疑的な立場を取る理論を通してロボットと人間について考察する。

ニュートン力学

 初期条件が与えられれば、それ以降の運動は方程式によって一意的に決定付けることができると考えられる。現在の状態が分かっていれば将来を完全に予測することができるという事であり、このような考えを決定論と呼ぶ。
決定論を最初意に定式化したのはポール=アンリ・ティリ・ドルバック(1723-1789)である。ドルバックは分子の運動に「偶然」といったものは起こりえず、全ての分子運動は正確な幾何学によって予測可能であると考えた。

ラプラスの魔王

 統計学でも有名なピエール・シモン・ラプラスは、決定論を物理学的・数学的な物として考えた。ラプラスにとっての決定論は運命論とは明確に峻別された「法則」なのである。すなわち現在の宇宙は過去の状態の帰結であり、将来の状態も現在の状態の結果でるため、自然を動かす全てと力と物体を知り、これらの条件を完全に分析することができれば、宇宙で起こる全ての現象を計算することができるというのである。実際に宇宙の全ての物質・現象を捉えて未来を完全に計算することは、人間の知性では不可能であろう。それゆえ、その様な知性を持った存在を「ラプラスの魔王」と呼ぶ。余談であるが、東野圭吾の『ラプラスの魔女』はこの「ラプラスの魔王」を題材にした作品である。                        

 以前紹介したアイザック・アシモフの『われはロボット』の中にも、行政ロボットが未来を予測して人間にとって不可な決定を下すという物語が収録されている。高性能のロボットによって「ラプラスの魔王」は実現しうるのであろうか。その時はロボットは何を生み出すのであろうか。

決定論と自由意志   

 さて、人間の脳は約60兆個の細胞が組織化された複雑な機械であると考えることができる。細胞がどのように動くかは遺伝子に書き込まれたプログラムによって決まっているし、人体の基本的な性能は遺伝子に書き込まれた初期条件によって制約されているからである。そうであるならば、人間も決定論によって説明することが可能と言えよう。
 決定論によれば人間の知的活動が遺伝子や脳の働きに基づくアルゴリズムによって説明・記述が可能となる。それでは私たちが「自由意志」と呼んでいるものは存在しないこととなる。外的要因のみならず、意思決定のプロセスまでもが科学的な現象として”計算可能”なものであるからである。アシモフの世界ではロボットは全て「ロボット工学の三原則」によって説明されていた。決定論における人間とロボットのどこに差異があるのであろうか。
 実際には決定論のように全ての現象を予測することは難しい。ニュートン力学において天体の動きは星が2つの時は予測可能であるが、星が3つに増えると長期的な予測が不可能になってしまう(ポアンカレ理論)。また量子力学の分野では「観測」と「結果」の関係性に関する論理的基盤も脆弱であると言わざるを得ない。量子力学については本旨から大きく逸脱する上、私自身の理解不足によって読者に誤解を与えかねないため、これ以上の言及は避けたいと思う。量子力学について興味がある方には以下の書籍を推奨する。

 脳科学の分野においても自由意志は存在しないという仮説が有力となっているが、我々の社会は自由意志を前提としている。法律を犯した人間は司法によって裁かれ罰則を受けることになるが、故意であるか瑕疵であるかで罰則が大きく異なる場合が多く見られる。もし自由意志が存在しないならば、このような司法制度は不当なものである。脳の信号に従った人間に道徳的責任を求めることになるからである。このような問題は人工知能の分野では喫緊の課題である。人口知能が犯罪や自己を起こした場合、現状では製造者がその責任を負うべきであるという考えが主流である。人工知能は自由意志を持たないうえ、具体的な罰則や補償方法も不明であるからだ(事故を起こした自動運転システムに罰金や懲役刑を要求することが正当な司法制度であるとは言い難いだろう)。それでは意思、あるいは心までもが先天的に「決定」された人間はどのように扱うべきであろうか。どうやらこの問題は司法制に留まった話ではなさそうである。

終わりに(ロボットと哲学と人間)

 私たちがロボットについて考えるとき、人間について考えることを避けることはできないだろう。これまで「ロボットと哲学」における「ロボット」は、カレル・チャペックとアイザック・アシモフのロボット象を中心に扱ってきた。これは「ロボット」の語源を捉えた上で議論の一貫性を保つためである。無論「ロボット」の解釈はこれに留まらない。例えば星新一の『ボッコちゃん』には以下の文章が認められる。

人間と同じに働くロボットを作るのは、むだな話だ。そんなものを作る費用があれば、もっと効率のいい機械ができたし、やとらわれたがっている人間は、いくらでもいたのだから。それは道楽で作られた。         ― 星新一『ボッコちゃん』p14より引用

 「やとわれたがっている人間」とロボットの関係はチャペックやアシモフの作品でも扱われている。産業革命時代に労働者が雇用危機を案じて生産工程の機械化に反感を持ったことはラダイツ運動等にも表象される。ロボットが人間の労働を代替するのであれば、当然のことである。しかしながら星新一の『ボッコちゃん』の世界では、ロボットの解釈はチャペックやアシモフとは異なったものになっている。ロボットは機械と峻別されており、一つのアイデンティティを与えられている。

 一方で近年はRPA(Robotics Process Automation)と呼ばれる技術への関心が高まっている。簡単に言えば事務処理(Process)などを自動化(Automation)する技術である。「Robotics」という語が使われているのは、自動化された動作をPC内のロボットに行わせるためである(機能としてはマイクロソフトの「マクロ」に当たるものと考えて頂いても差し支えない)。RPAにおけるロボットは現実世界に実態を持たない。PCの内部に組み込まれた仮想的な存在である。

 このようにチャペックから始まった「人間の労働を代替する(ヒト型の)機械」からロボットの解釈や実態は様々に分岐している。「ロボット」をどのような存在として捉えるかによって、与えられる示唆もまた変わってくるのではないだろうか。

 私たちが人間について考える時、哲学はその有用性を遺憾なく発揮する。本シリーズではロボットを通して人間の存在とは何かを目的論、道徳論、言語論、構造主義、決定論など様々な角度から考えてきた。後半になるにつれて結論が不明瞭になってしまったことは申し訳なく思っている(ロボットの要素が薄れてしまったことは構想上の誤謬であり、これに関しても謝罪をせねばならない)。だがこれは私自身が未だに「人間とは何か」という問いに対して明確な答えを有していないからであり、一方では読者に対する私の問いかけでもある。
 ヒトゲノムを有していれば人であると言えるであろうが、それはあくまでも生物学上の言語的な分類に過ぎない。人間(社会的な人格を中心とした人)とはどのような存在であるかに対する答えとしては不十分である。
突然だが、『鋼の錬金術師』という漫画をご存知であろうか。主人公の弟であるアルフォンス・エルリックは、とある禁忌を犯した結果、魂と肉体を引き離されてしまった。彼は兄の手により”鎧(下記広告参照)”に魂を定着された。彼は中身のない空の鎧で、すなわち本来の肉体を持たず、魂をかりそめの入れ物に入れた状態で生きている。『鋼の錬金術師』の読者であれば共感頂けると思うが、鎧姿のエルリックを「人間ではない」と考えることには抵抗があるだろう。


 個人的には「魂」というものの存在には懐疑的ではあるものの、どうやら人間であることは意思や意識など、精神的なものを尺度に考えることができそうである。
 映画『マトリックス』では、人びとはある種の「仮想世界」で生活している。肉体は別の所で保存されており、本人はそれに気づかずに仮想世界で”日常”を送っている。肉体から見れば、夢と気が付くことなく永遠に夢を見て眠っているような状態である。多くの人はこのような状態を「人間として生きている」と考えることに抵抗を感じるだろう。アルフォンス・エルリックに対する感情と大きくかけ離れている。この差異はどこから生ずるのであろうか。
 「ロボットと哲学」はこれにて終了するが、読者の皆様が今後とも哲学的探求を続けていくことを願ってやまない。その時ロボット、延いてはSF作品は多くの示唆を与えてくれるだろう。





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