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ロボットと哲学⑥構造主義と労働(Robota)

前回

 19世紀から、フィールドワークによって様々な民族の社会や文明を研究する文化人類学が発達した。文化人類学者であるレヴィ=ストロース(1908-2009)は、ソシュールの考え方などからの影響を受け、「主体の思考や行動は構造(社会)によって規定される」と考えた。このような考えは構造主義と呼ばれる。第2回で触れたサルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義的な考えとは対照的である。

アルチュセール

 ルイ・アルチュセール(1918-1990)学校やメディア等を国家のイデオロギー装置と呼んだ。人びとはこのようなイデオロギー装置を通して「国家に従う国民」となる。政治学においてマスメディアは司法・立法・行政の三権に次ぐ第四の権力と考えられる。また、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』においては「国民意識」が言語統一や国家の宣伝活動、出版物、教育を通して様々な形で「獲得」・「形成」される想像上のものであると考えられている。
 またアルチュセールは、警察・軍隊・司法を「国家の抑圧装置」と呼んだ。国家の抑圧装置は、自発的に従わない逸脱者に対処する機能を有している。典型的な恐怖政治が想起されるかもしれないが、日本でも法律違反をすれば警察に御用になり、裁判の判決によって裁かれる。アルチュセールによれば、国家のイデオロギー装置と抑圧装置によって社会における支配的な体制を追認するイデオロギーが不可避的にもたらされるのである。

ミシェル・フーコー

 フランスのミシェル・フーコー(1926-1984)の思想はポスト構造主義と呼ばれている。権力を担うメンバーは国家や独裁者などのように固定されておらず、家族や学校などの小集団の中における力関係が権力になるという。アルチュセールのアプローチがトップダウンであるとするならば、フーコーのアプローチはボトムアップであると言えるだろう。
 なお、フーコーと言えば監視塔の話が有名だろう。看守が囚人から見える位置を巡回するよりも、囚人から看守が見えない構造になっている監獄の方が効率・効果的であるという話だ。囚人から看守が見えれば、看守の目を盗んで悪事を働くことができるが、看守が見えない位置にいると自分がいつ監視されているか分からない。結果、囚人は常に監視されているという錯覚に陥る。仮に看守が一人も居なくても同じ効果が得られるのである。
これは「自分が監視されているかもしれない」という意識を内面化することによって多くの人口を効率良く管理する施策である。このような施策が規律訓練を通して行われることによって、権力は自動化される。

 余談であるが、昨今ではSNS上で「炎上」と呼ばれる現象が発生している。過激な発言や迷惑行為の画像などをSNSにアップロードすると、それを見た利用者によって罵詈雑言を浴びせられる現象である。それだけで済めば良いのだが、時には個人が特定されたり、関係する会社や店に直接的な被害が及ぶことがある。炎上に加担する人々は法律によってではなく全く個人的な正義(義憤と言った方が良いだろうか)や道徳・倫理観によって行動している。アルチュセールやフーコーがこの光景を見たら何を思うのだろうか。

奴隷について

 近代以前は全体として「人間」は「家」の所有物であるという傾向が強く、たとえ奴隷身でなかったとしても子どもや女性は家長の所有物であるという認識がなされることも少なくなかった。特に古代世界では、親が子供の結婚相手を決めたり、女性への暴行は女性に対してではなく、女性の父親や夫に対する罪であると認識されていた。
 奴隷は、(原則的に)主人の労働を代替するものであるといえよう。ところで、第1回で紹介したカレル・チャペックによる造語「ロボット」はどのような意味であったかを想起したい。ロボットは「人間の労働を代替する器械」であった。それでは、自由の無い奴隷とロボットの違いは何であろうか。どちらも食事や休養(メンテナンス)が必要で、年を取り(経年劣化)、反抗したりミスをする(プログラム以上)、費用のかかる労働力としてしか考えられていない。少なくとも第三者からの目線から見て違いは無いように見える。この差異を考えるにあったっては、主語を「奴隷」とした、すなわち個人を中心としたアプローチが必要になるだろう。

 カール・マルクス(1818-1883)は、近代の資本主義国家において労働者は生産者(資本家)の労働手段として創造性や独創性を発揮することがなく、また自らの労働の成果を手にすることができない機械と化していると考えた(マルクスはこれを労働疎外と呼んだ)。チャペックが『ロボット』を出版したのはマルクスの没後僅か37年後であった。

次回に向けて

 今回紹介した権力やイデオロギーに関する議論は、近代化の過程として個人の帰属が家族単位から国家単位へと転換することに伴って発展した議論であると捉えることもできる。では近代から現代への転換は何を意味するのであろうか。私なりの(しかし月並みな)一つの見解として、「個」の獲得が考えられる。国家が国民に危害を加えることは弾劾されるべきこととして認識され、従って自国民やその他の国民・民族を虐げる原因となる戦争や武力行為は控えるべき行為とされている(特に侵略や富の搾取を目的とした戦争は忌み嫌われる)。人権意識は歴史上おそらく最も強く普遍的なものとなり、少数民族やLGBT等の権利・自由にも焦点があてられるようになった。それに伴い、国家は国民の所有者ではなく、個人の自由を保障し不平等を解消するという二律背反を平和裡に実現することが望ましいというイデオロギーが一般化したようにも思える。
 無論、個人は未だに国家や社会から完全に自由になったわけではない。現代においても人間は社会的な動物であることを辞めることができないが、このような構造のみを扱って人間を説明しようとすることも不適切であろう。模倣されることによって継承されていく文化や規律、言語や礼儀、ファッションなどの多様なものを総称して「ミーム」と呼ぶ(リチャード・ド―キンス『利己的な遺伝子』)。前回からの議論は(大胆な)ミームに関する議論であったが、先述した通り個人の存在についての議論においては構造(ミーム)と個人(遺伝子)の両面からのアプローチが必要である。次回は決定論と自由意志について話をしよう。

古代世界の奴隷制や家族観についての描写が秀逸な歴史映画↓


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