国語教育について

 国語教育は、その基本的構造に致命的な問題があり、これまで学習者の言語能力の向上に寄与しえなかった。その問題についての説明と解決方法を示すことが、この文章の目的である。

 国語教育の問題を示す前に、整理しておかなくてはならない概念がある。概念を整理していく過程の中で、国語教育の問題が表出されるからである。

 まず、「言語」についてである。「言語」には二つの役割がある。一つは「思考」、もう一つは「伝達」である。言い換えると、「思考」というのは、自己との対話であり、「伝達」というのは、他者との対話である。言語によって生み出される諸々の事象は多様であり、「言語」の全体像を網羅的に捉えることは困難だ。しかし、言語を伴う事象の本を正すと、そこには明確な根源が存在する。その根源とは、「言語的知識」である。この「言語的知識」という概念を、簡潔に定義するならば、「文字及び音声によって記号化された情報のネットワーク」である。

 読み書きなどの「言語的行為」は、この「言語的知識」を基に行われる。本に書かれている文章も、会話の中で交わされる言葉も、個人が所有する「言語的知識」を基に構成されたものである。文章を読むときも、言葉を聞くときも、「言語的知識」に基づいて理解される。それぞれの個人に備わっている「言語的知識」が、「言語的行為」を可能にしている。

 機能的な「言語的知識」を持つ人が文章を読むと、細かな情報にまで理解が及び、書かれている内容について、具体的で詳細なイメージを持つことができる。また、そのような人が文章を書くと、頭の中にあるイメージを、既有の情報のネットワークを駆使して自在に言語化し、他者へ伝えることができる。「言語的知識」の改善は、その発露である「言語的行為」の改善を意味する。「言語的知識」の機能性こそが「言語能力」そのものなのである。

 ここで当初の主題である、国語教育に焦点を戻すと、その「言語的知識」を効果的に育てているとは言い難いのが現状だ。「言語的知識」を育てるための効果的な方法と、国語教育で行っている方法との間には、大きな乖離があり、それが国語教育に致命的な問題を引き起こしている。

 「言語的知識」を育てるために効果的な方法を端的に述べると、「系統的」な文章を「連続的」かつ「継続的」に読んでいくことである。文章の内容が「系統的」であり、その文章を短い間隔で「連続的」に読み、長期間にわたって「継続的」に読み続けることが、「言語的知識」の向上には非常に効果的である。この三つの要素は、どれも適切に記憶の中に整理されるために必要な要素である。

 しかしながら、国語教育における読みには「系統性」が決定的に欠けている。このことは、教科書に載っている教材を見れば分かり易い。それらは、系統性の無い短い文章群である。数週間単位で全く関わりのない文章に教材が切り替わる。「幅広い」ジャンルの文章といえば聞こえはいいが、その実、文章間の繋がりに欠けた文章群である。このようなまとまりのない短編集では、学習者の「言語的知識」は育てられない。

 その理由は、前の文章を読んで得た知識が、次に読む文章の理解に全く活かされないからである。意味的な繋がりのない断片的な読みでは、仮に新たな言語化された情報を認識したとしても、既有の言語的知識の体系との繋がりが浅薄であるがために、風化の途を辿ってしまい記憶に留まることはない。知識は組織化されずに孤立してしまい、記憶の奥底に沈んでいってしまう。

 国語という教科は「読む方法」を教えており、どんな文章でも読めるようにするための「読む能力」を育てているのだから、教材に偏りがない方が良いというのが国語教育を行う側の論理である。しかし、読むという事象を根本的に支えている「言語的知識」を育てることができていないのだから、当然その先にある言語能力の向上にも寄与できていない。道具の使い方を、道具を与えずに教えているからだ。棒を与えずして棒高跳びを教えたり、筆や墨を与えずに書道を教えたりするような不自然な行為がまかり通っている。

 国語教科書には教材としての限界がある。自然な「読書」と国語の授業での「読み」には、埋め難い溝がある。学習者の「言語的知識」を育むことを念頭に置いて教材を選択しなくてはならない。教材の大幅な転換こそが国語教育を有意義なものにするための唯一の道である。

 これまでは、「読書」という行為が、娯楽として、趣味として生活の中に位置づけられていた。だから、特段、国語教育が個人の「読書」に口を出さずとも、自然な生活の中で「言語的知識」が個人によって育まれてきた。しかし、「読書」は各々十分にやっているから、それをわざわざ学校の授業で取り組ませる必要はないという考えは既に古い。「読書」という行為の生活における優位性は、急速な情報化に伴って、極端に低下している。それよりも分かり易くて、刺激的な娯楽はいくらでもあるからだ。

 国語教育のカリキュラムの中に、明確に「読書」を位置付けなくてはならない。もちろん自由に「読書」というのも悪くはない。しかし、系統性という要素を取り入れることを考えれば、内容的にまとまりがあり、論理性もある論説系の文章が望ましく、継続的に読んでいくことを前提として考えるならば、教科書に掲載されているような短編集ではなくて、ある程度文章量がある本である事が望ましい。

 一冊の本を時間をかけて読み込んでいく、そのような授業を行うことで初めて国語教育は学習者の言語能力の向上に寄与することができるようになるだろう。

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