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スーパーファミコン世代から哲文学にのめり込んだ人ならわかるかもしれないアドルノの「マナ」の話(※少しオバケの話)

私もつねづね読書好きであると強調し、文学や哲学に詳しげな顔をしているので、以下の話は、恥ずかしい話ではあります。

マジメなドイツ哲学研究の人には怒られるかもしれない。だが本当のことだから、言おうと。

ドイツの現代哲学者にアドルノという方がいます。私はこの人(及び彼に関連する「フランクフルト学派」の人々)にそうとうのめり込んだ時期があるのですが、

その理由は、アドルノが『啓蒙の弁証法』で登場させた「マナ」という概念にビビッときたことがきっかけです。

その「マナ」というのが、いわゆる神話時代や、文明化以前の古代人たちがもっていた、「自然に対する畏怖の力」というようなところなのですが、

はい、そうなのです。

私のようなスーパーファミコン世代からすると、「マナ」といわれると【聖剣伝説】ですよね!

マナを語るドイツ哲学者とはなんぞや!?」と10代の私には引っかかり、難解な『啓蒙の弁証法』や『ドイツ悲劇の根源』やらの、この時代のドイツ思想に向かったのでした。安易ですねー。

しかし。

今の年齢になって思うこと。この時に引っかかった「マナ」の概念は結局その後の人生にも活きている。

近代社会が、なんでもかんでもを合理的に説明し、神秘的なものを根絶していくことを、その成果は認めつつも、その暴走にはキチンとケチをつけること!

そういう意味で私は今でも、「幽霊なんか科学的に考えて存在するわけがない。だが、幽霊をめぐる物語を聞いてコワイと思う気持ちは大事だ!」という不思議な立場を保持できている。偉そうにいえばアドルノのおかげ。でももっと遡れば聖剣伝説のおかげ。なんて人生だ。

ともあれ、アドルノの難しさは、

「オレはアドルノの哲学を勉強したことがあるんだぞ!エヘン」という顔をするのも、それはそれで近代的な暴力的「自我」の罠にハマるわけで、

アドルノを学べば学ぶほど、「アドルノを勉強して彼の思想を信奉しています」と言えなくなる難しさがあるw

だから私は、引き続き、小難しい哲学や文学なんかは知らないフリをして、サブカルや怪談をめぐる「しょうもない、非権威的な語り」を戯れ続けるしか、ないですな。フォロワーを増やそうともせず、しかしnoteをやめようともせず。しかしこの、いっさいの「自我強化を避ける」ことがまさにアドルノ的なのかもしれない

さて、そんな10代の頃の私が使っていた、アドルノ入門書が以下。わかりやすいです。いまではもう古本になったか。↓



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