忘れんぼ姫の花道 前編
「薬の飲み忘れが続いていて、受診への慣れた道も迷うようになってきた。」と、週1回在宅訪問して服薬管理を行っている薬剤師から電話が入った。
かかりつけ内科医院の階下にある薬局が、主治医からの指示で医療保険制度のもと、薬剤師訪問サービスを提供している。
薬剤師は薬局や訪問先の居宅で、ご本人の様子の変化を観察しており、認知症の疑いが持たれるケースと判断した場合は、ご本人の同意を得た上でオレンジチームにこうして相談を持ちかけてくれる。
オレンジチームは認知症の総合相談窓口である。このケースでは専門医への受診を始めとした、今後の在宅生活全般の支援について、薬剤師から相談があり、支援が始まった。
「認知症」という言葉はプライドを傷つけてしまい、支援を拒否される可能性があるので、表現しない前提で訪問同行を依頼された。
高齢者さんの健康チェックをするために、地域を巡回している保健師です、と紹介されることとなった。担当薬剤師と訪問すると、「シャン」と背筋を伸ばした上品なご婦人が、笑顔で出迎えてくれた。
「介護の方なら、ほらこの通り元気ですから、必要ございませんよ!」といきなり足先を肩の高さまでひょいっと上げて、「バレエを嗜んでいたものですから。」と私たちを驚かせる。
この数か月で徐々に飲み忘れることが増えた。「あれ、飲んでいなかったかしら。」と首をかしげるが、「基本的には何でも1人できちんとできます。」の一点張り。
「ほら、このテレビドラマのお衣装は時代考証がおかしいわね。」くるくると表情を変えて、朗らかに話し続ける。「道に迷ったことなんて、ございません!」
洋裁一本で身を立ててきたしっかり者の「おひとりさま」。都会の真ん中の分譲マンションの一室。ライフスタイルの洗練された様子が、家具やテキスタイルからもうかがえる。
着こなしも数か月前までは洒落たものだったが、最近はそのコーディネートが「ちぐはぐ」な感じで、「花江さんらしくない」と薬剤師はため息をついた。
よく見ると北欧家具の上には埃が積もっている。
自立心が強く、誰にも頼らずに生きてきた。洋裁の先生として、生徒さんからも頼られ、頼もしく指導して来られたのだろう。
部屋のそこここに自身で縫い合わせた美しい布が置かれており、ガスコンロを隠すように、天井からも長い布が垂れ下がっている。
「部屋に生活感が滲み出るのは嫌。」
料理は苦手で、百貨店の地下で惣菜を買うと言う。でも紅茶は大好きで、お湯は毎日沸かす。
もともとふっくらしていた様子が、卓上の写真からうかがえる。とすると、今は痩せが気になる。
認知症専門医への受診と介護保険新規申請を頭の隅っこに置いて、またふらっと立ち寄る約束をした。
……中編へつづく
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