絵や小説や音楽をAIがつくる時代に、小説家としてやっていく上で考えたこと

イラストを生成するAI、小説を生成する対話型AI、音楽を生成するAI……これらはもう、かなりのクオリティの成果物を出すことができるレベルになっている。

絵、小説、音楽、これらは「芸術」とくくることができるが、「AIがある程度ハイクオリティなものを高速で量産する時代に人が芸術をやる意味はあるのか」という疑問で揺らいでいるクリエイターが多く見受けられると思う。

これには二つの向き合い方がある。
商品をつくっているのかと、芸術をやっているのかだ。

商業目線でいくと、AIに芸術家が仕事を奪われるという不安は的中する。小説を書いている私の周りでも、すでに同人の音声作品や小説の表紙・挿絵をAIにしている作品はちょくちょく見る。
使う側からしたら、イラスト代の数万円が浮く上に、制作期間を待つ必要もないため、当然メリットが大きい。これはイラストレーターが仕事を奪われているともいえる。

AIがつくった小説が、小説の賞を獲るのも時間の問題だろう。現にAIと共作した小説が賞を獲った例はすでにある↓

芸術家のAIとの付き合い方は、作品の質を高めたり、制作スピードを高めたりするような使い方をするのが理想だ。商業として、つまり作品でお金をもらうためには、ある程度のクオリティが必要である。AIを利用することでクオリティを底上げできるし、AIの解答をヒントにアイデア出しの相棒に使うのは実際に思考を加速させる。

chatGPTにアイデア出しを相談しながら小説のプロットを書いてみたことがあるが、自分にない視点を数秒で提供してくれるのは思考を広げる上でかなり役に立った。うまく使いこなせれば「AIが作ったものを人間がブラッシュアップすることで、AIがつくったものを超える」という生き残り方ができると思う。これが商業目線の付き合い方だ。

商業目線でもうひとつ起こることは、オリジナリティの価値が上がること。

今AIと言われているものは大量のデータを学習して出力する機械学習と呼ばれる仕組みに基づいているので、得意なのは「すでに世の中にある感じのものを高水準で量産する」ことだ。

たとえばいらすとやの存在が同じようなことを引き起こしたように思える。
いらすとやの絵を公的機関すら使うようになった現代の日本で、実際にイラストレーターにとっての「いらすとやみたいな絵を描く仕事」は減っていそうに見える。
いらすとやの理念は「こういうイラストはいらすとやが全部代替するから、もっとクリエイティブな仕事にみんな集中できるようになって欲しい」というものだと聞いたことがある。

AIでもこれと同じことが起きる可能性がある。

いらすとやみたいな絵を描く仕事は失われた。その代わり、もっとクリエイティブな独自性のあるその人しか描けない絵の仕事が増えるだろう。これが楽観的な予測だ。

オリジナリティの価値が上がるのは間違いない。
商品というのは「顧客の求めるもの」をつくることだから、仕事を受けるとき、芸術家は「顧客の求める自分の色」を安定して出すことを求められる。

例えば私の場合だと、官能小説の特定のプレイに定評があるので、そのプレイに特化した作品の依頼が来る。逆に言うと、「何でも書けます!」という人には依頼が来づらい。誰でもいいし、AIでもいいからだ。

そういうわけで、強い個性がある人しか生き残れなくなる、というのは起き得る未来だと思う。

だからうまくAIでクオリティを底上げして、自分の個性を際立たせるような使い方をするのが商品をつくるなら一番良いと思う。
写真を自動で線画にするツールをつかって漫画の背景を制作する人はすでに多くいるだろう。そういう付き合い方ができればと思う。
脅威ではなく、相棒として。


芸術をやるという意味では、AIはなんら影響がない。

なぜなら、芸術とは「自分はどうしてもこうなってしまう」という部分を外に出すことだからだ。

AIは自分ではない。クオリティが高くても関係ない。
1から自分が何かをつくった、その過程に喜びがあり、成果物がどれだけ他人と似ていても本来関係ない。

「自分の絵がAIより下手だから、描く意味あるのかなって思ってしまう」というようなつぶやきを見かけた。

クオリティを「価値」だとするなら、そういう意味での「価値」はなくなるかもしれない。

しかし描く「意味」はある。自分がそれを1からつくった、その行為自体が芸術で、それがうれしくてたまらないのが人間だ。

人間は皆芸術家だと、私は半ば本気で思っている。
小さい頃に夢中で絵を描いたり、夢中で積み木をしたり、そういうのは誰もが通った道だ。そしてそういうものが創作だ。子供の頃、誰もが芸術家だった。
他人と似ているかどうか、他人よりクオリティが高いかどうか……それらはすべて「商品として」創作物を見たときの考えだ。

確かに商品としては、他と違う独自性があり、他よりクオリティが高いものが売れやすい。売れるかどうかという視点はそういう意味で、本来の芸術の「自分の中から素直に出てきたもの」という成果物を否定する。だから苦しむクリエイターは多い。

クリエイターとして食べていくなら、割り切って商品をつくるのは必要なステップだ。スポンサーでもつかない限りはそうだろう。「自分の中から自然に出てきたもの」を作品と呼ぶならば、「作品」を「売る」のは本来難しい。

しかし「芸術」を自分がやりたくてクリエイターになったなら、商品と作品を両方つくるのが一番いい。金と心のためである。

そしてAIがつくるものは、「作品」ではない。

「画面の右上らへんに丸がある絵をたくさん見かけたのでそこに丸描きました」という出力だからだ。

あなたが「どうしても画面の右上に丸を描きたくてたまらない、他の人と似てようが似てまいがだ」と思ってつくるのが作品だ。

そしてそういう「作品」は、どんなに他人と似ていても、つくっている間楽しかったはずだ。
もし楽しくなかったなら、商品として他人と比べてしまっている。AIとは関係なく、商品をつくっているかどうか、という目線に自覚的になることが芸術の喜びを取り戻すコツだ。

自分の手で一から何かをつくるというのは、それ自体に喜びがある。それが芸術をやることの意味、AIがどれだけ進化しても人間が芸術をやる答えだ。

その上で、AIが芸術をやることのハードルを下げる、きっかけになる可能性にも触れておきたい。

自分の妄想を形にするには技術が必要だ。自分が表現してたまらないことも、他人に伝わる形にするには訓練がいる。
そういう技術を持たず、訓練をしてこなかった人たちに、AIは表現の入り口になる可能性がある。話の設定とあらすじは考えられるけど、文章を書くのが苦手だ、という人の想像が形になる可能性を秘めているのがAIだ。これは喜ばしいことだと思う。

AIをうまく使うこと。芸術をやる助けにすること。
芸術をやる意味は、人が人である限り消えないこと。

これらをわかっていれば、きっとこの先も自分はクリエイターでいられる。

もっとも、食べていけるかは別である。仕事が減るのは覚悟しなければならない。商品をつくる上でも、AIを利用するなりして工夫が必要だろう。

それでもおそらく、誰にも読まれなくても死ぬまで小説を書くだろう自分にとって、芸術家で居続けることはAIが小説を書けるようになっても可能だと言いたかった。それだけだ。

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