アダルトチルドレン卒業宣言【その4】 〜実家家族からも卒業しました〜
私が考える「アダルトチルドレンからの卒業」とはなんだったんだろう
昨年末にこのようなことが起こった後、私は自分が思う「アダルトチルドレンからの卒業」とはどんなものなのだったのかと考え続けました。
前回の記事までは、「あんなに憎んでいた親を許せるようになり、親も変わった」という、誰が読んでも「めでたしめでたし」な状況になっていましたが、事態は真逆の結末となりました。
見方によっては、昔よりも状況が悪くなったのではと思えるかもしれません。
でも、私自身に目を向けてみると、
完璧な人間はいないということがわかり、自分の不完全さが受け入れるようになった
自己否定の念が薄くなり、自殺衝動はいつか必ず過ぎ去ることが感じられるようになった
強烈な人間不信が和らいで、夫をはじめ人と適切な距離を持って付き合うことができるようになった
人を理想化する癖をやめたら、人の価値観や機嫌に振り回されることも激減し、気に入られたり認められたりすることがどうでもよくなった
こんな変化がありました。
私は、人生の舵を自分に取り戻せていたのです。
最近は、自分にとって「何が心地よいのか」「しっくりくるのか」を常に問う癖がつき、とても生きやすい毎日です。
前回までの記事の中で、「こんなことが有効だったかも」という数々の試みを書いてきましたが、
そこで得られたことは、確実に私の中に消えることのない財産として積み上がっていたんだ、そう感じています。
また会えたらと思う。でももう会えない。会わない。
とはいえ、こうして家族と距離を置いて心が軽くなったのか、といえばそう簡単なものではありませんでした。
すべてが嫌な思い出ばかりではありませんし、とても仲の良かったきょうだいもいました。ふと「どうしてるかな」と思い出しては、「あ、もうあの人たちに会うことはないんだった」と寂しく思う。
高齢の母の姿がまぶたの裏に浮かんで、罪悪感に苛まれることもあります。
でもその度、「もう会わないんだ」と思うのです。
「もう限界。これ以上この人たちに関わったら死ぬ」
こう決めるまで、
私がもうちょっと我慢すればよかったんじゃないか。だってほかの家族はそこまでのことだときっと思っていない。私が神経質すぎるんだ。
そう何度も自分を責めました。
でもその度に、
「また会ったら、私はきっと自分の命が危うくなる。忘れちゃったの?」
と、出来事を一つ一つ思い出しては、固まりはじめた心のかさぶたを剥がすようなことを繰り返していました。
命が危ういというのは大袈裟に聞こえるかもしれませんが、父の病状がいよいよ悪くなり始めたときに病室でメンタルを直撃するような出来事が起こったからでした。
怒りと混乱で頭に血が昇ったとき、心臓がギューッと絞られるような痛みを感じ、「あ、これはやばい」と私は廊下のベンチに倒れ込みました。
過呼吸にもなってきたのでひとりでしばらく「ひーひー」としていたのですが、落ち着いてきたとき、「ああもう限界だ。これ以上この人たちに関わったら死ぬ」と。実際その心臓の痛みはそれから1週間続き、「もう離れよう」と私の決意を固めるのに役に立ってくれました。
「一般的な家族はどうしてるかじゃなくて、自分がどうしたいかだけ」
でもそう決めた後も、しばらく、自分は神経質すぎるのではないか、ほかの家ではみんなある程度我慢しながらきっとうまくやってるのに、と逡巡して苦しんでいました。
でもあるときに夫から
「一般的な家族がどうとか、それは関係ないでしょ。自分がどうしたいかだけだよ」
と言われて、はっと目が覚めました。
家族にも相性がある
ちなみに私の家族は、あまり感情を外に出さない父と私以外は、その時々の感情に正直なタイプがほとんどでした。
争いごとが好きではない父と私は貝のようにひっそりと生きていたのですが、父が亡くなってしまった後、異分子の私が居場所を失ったのは自然な成り行きなのかもしれません。
家族とは血が繋がっているとはいえ、所詮は他人同士。相性の良し悪しが存在するのは当たり前です。
父とは不思議と特に多く言葉を交わさなくとも、似たもの同士なんとなくお互いがわかっている感触があったのですが、残念ながら父以外の実家家族とはそうではありませんでした。
きっと向こうもそうだったのではないかとも思います。誰が悪いわけではない。せっかく家族として生まれたのに、お互いにとって残念で不幸なことだったと思います。
今回起こったことも、私がそうだったように、残りの家族もそれぞれの正義感や考えで動いただけなのでしょう。
絶対的な正しさというものはこの世にはありませんし、合わないのであれば、お互いのためにも離れるのが一番、そういう結論に至ったのでした。
家族の関係に正解はない
家族の関係に正解はありません。もし親と距離を置いたことを周囲に知られたら、
「育ててもらった恩を忘れるな」「親を見捨てるなんて冷酷で非常識だ」
そんな風に言われることがあるかもしれません。
でも、そんな親が自分を脅かす存在だったなら?
他人だったらきっと逃げているはずなのに、血が繋がっていたら、何をやられても許すべきなのか?私はそんな必要はないと思います。
自分にとって良い関係を探し出して、「自分はこれでいく」と決めることが一番大事。
私は家族と距離を置くという選択をしましたが、「自分が求めるおだやかで幸せな人生」にはこれが最善の策でした。
親と和解をするという選択も、ご自身が幸せと思えるのならば、もちろん素晴らしいことだと思います。
今、「家族との関係をどうしたらよいのか?」と苦しんでいる方がいらしたら、
「他人からの意見は置いておいて、自分がこれがいいと思える関係を自信を持って選んでいいんですよ」
とお伝えさせていただきたいと思います。
改めて「アダルトチルドレン卒業宣言」
さて、何を持って「アダルトチルドレンを卒業」とするのかは人によって違うと思います。
でも私は絶望の暗闇にいた昔の自分へ、胸を張って言えます。
「そんな辛い暗闇から出られる日はそう遠くない未来にやって来るんだよ。だから今は死なないで、惰性でいいからとりあえず生き続けて」
と。
家族との関係はどう転ぶかわからないけれど、
自分自身の人生を、自分のものとしてハンドリングできるようになるから、そうしたらすごく生きやすくなるから、と。
お仲間のみなさん、ハードモードな人生を設定されてしまった私たちですが、大丈夫、夜明け前は一番暗いだけ。わたしたち、本当によく頑張りましたよね。
人生をともに生き、助け合う関係に、血の繋がりは必要はない
最後に、この騒動の中でなによりも私の心の支えとなってくれた夫、澤円について感謝とともに触れておきたいと思います。
彼は毎回「よく頑張ったね。ほんとに偉いよ」と労ってくれ、時には矢面に立って私を守ってくれました。
大袈裟でなく、彼がいなかったら私は正気を失っていたか、自殺していたと思います。
気がつけば先月14周年目の入籍記念日を迎え、今は15年目の結婚生活に突入しているのですが、最近はますます「結婚してよかった」としみじみしています。本当に楽しく平和な日々です。
そして年末の騒動が終わったタイミングで、彼とのパートナーシップについて、Forbes さんとWoman type さんに取材していただき、心を整理するきっかけもいただきました。
彼も私も、心に傷を負って育ったアダルトチルドレンでHSPでADHD。
生きづらさMAXな条件を持った2人で、現在は「嵐の中で身を寄せ合う子供たち」のように、震えながら、でも馬鹿馬鹿しいことを言い合って大笑いしながら暮らしています。
今後年齢を重ねていく中で、どちらかが病気になったり、亡くなったり、関係が変わっていくことなどがあると思いますが、そのときも「お互いが幸せで心地よい状態であること」を忘れずに、おだやかに暮らしていきたいと思います。
血の繋がりがなくとも、労わりあい、助けあえる関係。
家族ってそれでいいのではないでしょうか。
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