グラスゴーでヤク中のファッキュー男に追い回される
先週まで私は、ハイランド地方、ダンフリースとスコットランド内を北へ南へ渡り歩き、たくさんの羊とたくさんの渡り鳥とネッシーや猫、そして多くの人々の世話になり尽くしていた。
このまま、田舎町のカフェで働きながら毎日海辺を犬と散歩する人生もいいな…と全く地に足のつかないままの私は呆然とウイスキーをすするばかりの日々を過ごしていた。
そんな中、先日ライブハウスの受付で出会った兄ちゃん、ジョージから金曜日にいい舞台があるから一緒に行こう、との連絡をもらう。
そうか。
そうだよ、私はグラスゴーに戻らなければ、このままじゃダメだ!とやっと重い腰を上げてバスに乗り込み、意気揚々とグラスゴー再び、ジョージに連絡をするとゴメン急な仕事が入り行けなくなった、とのことであった。
戻ってきちまったじゃないかもっと早く言え!
と他に何のあてもない私は行き場のない感情を持て余しながらとりあえず安ホステルにスーツケースを投げ込んで、何はともあれその舞台を観にいくことにした。
The National Theatre of Scotlandという演劇カンパニーの「Interference」という舞台。
スコットランド訛りが激しすぎて半分以上何を言ってるのかチンプンカンプンであったが、美しかった。
3幕構成になっており、最終幕のアンドロイドとばあちゃんが人工の森の中で佇んでいるシーン――尊厳死を選んだばあちゃんが湖の中にゆっくりと沈んでいくのを見つめる アンドロイドの瞳を見ていたら、泣けてきた。
余韻を大いに引きずりながら外に出ると、すっかり22時過ぎ、少し中心部から離れた会場の周りは人もまばらであった。
大きな大きな道路をたまに車が通る、歩道にはポツポツとオレンジの街灯が灯っているばかりで、バス停には私とオッサンの二人きりであった。
もう20分も前に到着しているはずのバスがこない。
しびれを切らしたオッサンはスマホ片手にぽちぽちタクシーを呼んでいるようだった。
と、どこからともなく
Fuck You! Kill You!
と男の声がする。
その声、どんどん近づいてきて――
気がつけば、私たちのすぐ背後に人の気配がする。
――すっかり固まっているオッサンと私、恐ろしくて後ろを振り返ることができない。
と、背後から
Fucccck Yoooooouuuuu!
とここ一番の叫び声がする。
ああやばいぞこれはやばいぞ、
私はホラー映画さながらの動きでもってゆっくりゆっくりと半身をそらし背後の声の主を見やる、
男は20代前半くらい、上下灰色のスウェットに長髪を垂らしフラフラと同じ場所をいったりきたりしながら虚空に向かって叫び続けている。
Fucccckkkk Yooooouu!
Kiiiiiiiiiill Yoooooouuuuu!
こいつ語彙なし・これはやばい。
オッサンは無我の境地に入りやみくもにスマホを見つめている。
と、カーライトがわっと私たちの眼前を照らし――そして止まった。
オッサンが呼んだタクシーである。
助かった、
と思ったのもつかの間、
あ、と声を出しかけた私を置いてオッサンは「Bye!」と言ってそそくさその場を去っていってしまった。
「え、まじで?」
とっさに日本語が出てしまうほどの衝撃。
同じ恐怖を分かち合った仲ではないか。ひどい。ひどすぎる。
この状況で置いてくか、普通?
ファッキュー男の叫びは止まらない。
――終わった。
私はファッキュー男を刺激しないようなるべくのさりげなさを装って、バス停を離れた。
右に行っても左に行っても人もまばらな道である。
とにかく少しでも明るい方へ、私は歩き始めた、歩いて、いえ走った、走って走ってああ半年前にダイエットのために始めたジョギング3日目で痛めたひざが痛い。しかし私は走らねばならない、このための足である、走れ走れ走れ、しかしファッキュー男の声のボリュームは全く変わらない。
あろうことか彼も走っているのである。
さっきまでのフラフラとした足取りはどこへやら、快足じゃねえか、負けてられねえよ怖えよついてくんな!
私は走った。
猫バスのごとく颯爽と救いのバスが現れないかチラチラ後ろを振り返るたびに、追いかけてくるファッキュー男の姿が目に入って、たまらなくにくかった。
私が一体何をしたというのだ。
ただただ観劇の余韻に浸ってバスを待っていただけじゃないか、君に対して私は何かしただろうか、いやしてないよ、ひどいよ!と私は悲しかった。っていうかオッサンひでえよ本当にひどい、そしてこいつ私を捕まえたところで一体どうするんだろうか、渾身の力を込めて私の顔にファッキュー!と唾を吐き捨ててそのスウェットのポケットに入っているナイフでもってサクッとさしたりするんだろうか、ああああと走り続ける私の目に、TAXIという黄色の四文字がさっと飛び込んできた。
T
A
X
I
!
私はファッキュー男に負けないくらいの声でもって
「TAXI!!!!!!!!!!!!!!」
と叫んだ。
タクシーは止まった、私は飛び込んで、精一杯の力でドアを閉めた。
カーウィンドウ越しに、男の虚ろな表情が見えた。
「どこまで?」というタクシーにとりあえず早く行ってくれ早く!と急かす、ドライバーはフンと鼻を鳴らしやっと車をだす。
上がりっぱなしの息を整えてそっと後ろを振り返る――
呆然と佇む男が、じっと私のタクシーを見送る姿が遠くなっていく。
命拾いしました、ありがとうとタクシーの運転手に伝えようとするも、運転手は私の日本語訛りの英語がわからないらしくひたすら「What?」を繰り返す。
もう話すのも面倒になってしまった私は黙って、ただ外の風景を見ていた。
とりあえず街のど真ん中の適当なところで降ろしてもらう。
フライデーナイトの街は楽しそうな人々でいっぱいで、妙に天気がいいのがまた悲しかった。
私はいま、こんな時にはなせる人が誰もいない街にいるんだということが改めて身に沁みた。
ジョージに連絡しようかとも思ったが、自分が招待した観劇の帰りに狂人に追い回されたと聞いたら悲しくなるだろうと思ってしなかった。
ホステルに帰って、ビールを2本かっくらい泥のように眠る。
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