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Road to Yakushima #1(宮脇慎太郎)

episode 1

「屋久島に行かない?」


「屋久島に行かない?」

記録的猛暑といわれたこの年の夏、突然スマートフォンに届いたメッセージ。今年、2018年は他にも大阪北部の地震から始まり、西日本集中豪雨や異常進路の台風など、災害に悩まされた年だった。

初めて屋久島のことを意識したのは、いつのことだっただろう? 世界遺産登録のニュース? それとも、スタジオジブリの映画『もののけ姫』を観た時だっけ?

いやどれも違う、たぶんあの時だ——。

僕は大阪芸術大学の写真学科で学びながらユースホステルクラブに在籍し、地元・香川の高校生活から一転、個性的な先輩たちに揉まれつつ日本中を貧乏旅行していた。永遠に続くと錯覚していた自由な時間に身を任せ、青春18きっぷで列車を乗り継いでヒッチハイクもしながら、もっと遠くへ、まだ見ぬ土地へと心はいつも先走っていた。

高校まではずっと美術部に所属し、油絵を描いていた。大学入学時に絵筆をカメラに持ち替えた時の心強さと、その機動性から来る解放感を忘れることはできない。日本の最先端の工業技術とエレクトロニクスの結晶が詰まった鋼鉄のボディー。その内部に装填したKodak 社製のカラーリバーサルフィルム。それさえ持っていれば、初めて出会う人とでも、初めての土地でも、たった独りで闘える気がしたものだった。

東北の鉱山にそびえ立つ廃アパート群、西の絶海に浮かぶ炭坑の島、琉球の聖地に転がる戦闘機の部品、流氷の沖から上がる北国の朝日。もっと、もっと遠くへ。当時の自分の抱えていた欲求には際限がなく、常にここではないどこか、目の前の人間ではない誰かを求めていた気がする。

そんな時、サークルの先輩から言われたのか、読んでいた本で見つけたのかは定かではないが、今なお記憶に残る一つのフレーズがある。「これから面白くなるのは、佐渡島か屋久島だ」。その言葉が、抜けない楔のように心に打ち込まれたのだった。

そして大学生の自分はこの二つの選択肢から、世阿弥に縁のある佐渡島を渡航先として選んだ。なぜかというと、当時付き合っていた彼女が「能」を好きだったから、というだけ。ただ学生時代にはあり余るほど時間はあるけど、とにかくお金がないもの。世間一般の例に漏れず、僕には佐渡と屋久島両方へ行く経済的な余裕はなく、そのまま卒業と就職を経て、社会人生活へ飲み込まれていくことに。永遠に続く自由な時間などというものは、結局現実の世界のどこにもなかった。

ここに来て誘われた屋久島への旅の名目は……


ここに来て誘われた屋久島への旅の名目は、島で暮らし、亡くなった山尾三省という詩人の法事に参加するというものだった。故人を偲ぶ集まりは「三省忌」と呼ばれ、毎年有志によりおこなわれているそう。2018年は、彼が生きていれば生誕80周年という、節目の年でもあるらしい。

学生時代には貧乏旅行と平行し、「レイヴ」と呼ばれる野外フェスに通い続けていた。そんな会場で時折見かける、仙人のような出で立ちの人々。かれらはどうやら日本のヒッピーだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

2000年前後、レイヴの会場でよくかかっていた「ゴアトランス」という音楽ジャンルは、ルーツを辿ればヒッピーの聖地であるインド西部のゴアが発祥と言われる。電子音楽にインド音階やイスラム音階など東洋的なメロディーが融合したサウンドは、新たな精神の地平を喚起させてくれた。単純なもので僕はいつの間にかヒッピーのスタイルにかぶれ、ユニクロの服ではなくエスニック雑貨店で買ったアジアンファッションに身を包み、Windows よりMacintoshを選び、日本の純文学よりもアメリカのビートニクたちの小説を好んで読み漁っていた。

日本のヒッピー文化のルーツは、詩人の三省さんやナナオサカキなどを中心とした「部族」と呼ばれるメンバーが源流らしい。そういった情報も関連書を読み進む中で知った。「部族」の〝ポン〟こと山田塊也の著した『アイ・アム・ヒッピー』(増補改訂版、森と出版)によれば、かれらは1970年代にアメリカの詩人アレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダーなどと交流しつつ、反権力や脱文明を掲げる世界の対抗文化運動とリンクしながら、日本各地でコミューンを作っていったそう。自分が体験したレイヴパーティーもまた、多分にそういったヒッピーコミューンの空気を感じさせるものだった。そこに集う人々は皆、優しくも繊細でどこか影があり、現代の社会に生きづらさや違和感を感じているものが多かった。同じ感覚を持つ人間が一時的に集い、期間限定で作り上げた非日常の「新しき村」。

あの時、レイヴのシーンで感じた一体感は、確かに本物だったはずだ。それは今も心と身体がしっかり覚えている。野外で踊る僕たちは何度同じ流れ星を見て、焚き火を囲み、朝日を迎えただろう。しかし同じ時を過ごして距離が近づくほどに気づかされる、仲間たちの寂しさや悲しみ。大勢になればなるほど感じる、痛みと孤独もあった。理想主義的なコミューンという場を長期的に維持していくことの難しさは容易に想像がつく。

ところが、40年も前に廃村を復活させるような形で築かれ、今なお存在する日本のヒッピーコミューンの一つが、三省さんの移り住んだ屋久島にあるという。そんな知識を得ながらも、身を立てることに必死だった僕は京都の出版社を退職後、東京のど真ん中にある写真スタジオへと転職、寝る間もない多忙な修行生活へと身を転じていた。そして屋久島への旅は「生きているうちに行きたい場所」の優先順位からこぼれ落ちていった。

でも、折々に手にする本が想いを途切れさせなかった。特に三省さんの本で一番読み込んだものが、散文を編集した『聖老人』(野草社)だった。詩人が東京を出て屋久島で暮らす前、父母のルーツである山陰の地に立ち寄ったエピソードがたまらなく好きで、何度も目を通した。そこには先祖の墓もあり、親族からは留まるよう説得される。あらゆる困難を乗り越えて、移住という信念を貫こうとする彼の心は激しく揺れ動く。そんな時に支えとなったのが、かつて旅した島で出会った、「聖老人」こと樹齢7000年を超す縄文杉の存在だった。島最大の巨木であるその樹に想いを馳せ、ついに三省さんは山陰を後にする。

消費社会にまみれた都会を脱出して、ルーツや親族とのつながりも捨てて「魂の楽園」へと旅立った「部族」のメンバーたち。理想的な生き方の実現と自由を求めたかれらが新天地で何を見たのか。その時代をリアルタイムで経験することはできなかったけど、その現場をこの目で見たかった。

20代の頃はゆるやかだと思っていた時間の流れは、いくつもの川の流れが合流して勢いを増すようにどんどん加速し、僕もいつの間にか世間で「アラフォー」と呼ばれる世代になりつつある。2011年の3・11東日本大震災を筆頭に、この10年強のあいだに本当にいろいろな出来事があり、それらすべてを思い出そうとするだけで呆然としてしまう。僕はといえば、ルーツや親族とのつながりを捨てることなく、重力に引き寄せられるように故郷に帰り、すっかりローカルの人間となっていた。

しかし、運命とは星のようなもので、はるか遠回りをした僕と屋久島の楕円形の軌道が、最接近するタイミングがやってきたのだった。

この出会いをもう逃したくなかった。人に寿命があるように、星にも寿命がある。これを逃せばその軌道は永遠に離れ離れになり、二度と交差することがないかもしれない。進むべき道を示す星の導きは、いつの間にかインターネット上の情報に取って代わられた。そして誰もが小さなデバイスを肌身離さず持ち歩き、遠回りせずともあらゆることに瞬時につながることができる、と思い込まされる世界になった。だが結局、「出会い」というリアルな経験こそがすべてなのだ。そして星の巡りは、いつも完璧なタイミングで訪れる。

Photo by Shintaro Miyawaki


声をかけてくれたのは……


声をかけてくれたのは関東在住の編集者で山尾三省の生誕80年出版企画を担当する、アサノタカオさん。「行きます」とメールで短く連絡した。すると、鹿児島港で船の出航時間前に落ち合おうと、返信が返ってきた。これで後戻りはできない。その日から屋久島への出発日に焦点を絞り、すべての行動をそこに向けて組み立てていった。

「三省忌」は8月28日。僕の住む香川の高松からの行き方を調べると、大阪の関西国際空港からLCC(格安航空)で鹿児島へ行って船に乗るパターンと、岡山から新幹線で鹿児島まで行くパターンが料金的に安くて早そうだった。関空から飛行機というパターンは、南西への旅のために一度四国から東へ移動するのが気分的に億劫だった。旅費が安く済むなら青春18きっぷも、と考えたが、西日本豪雨で山陽本線が何か所か寸断され、バスの代替運転がおこなわれていると知り、結局新幹線で行くことに決めた。

当日、早朝のJR高松駅を出発。乗客はまばらだ。快速マリンライナーは、瀬戸大橋のお陰で箱庭のような内海をあっという間に渡り切ってしまう。岡山駅に着くと一転ものすごい人混みで、この変化でいつも、本州に来たなと感じる。

学生時代は開通していなかった九州新幹線は快適そのものだった。高い山のない広大な九州大陸を、騒音も振動もほとんど感じさせることなく、一直線に南へと突き進んでゆく。途中、地震で被害を受けた熊本を通過する時、鉄骨に囲まれた熊本城の天守閣がちらりと見えた。

原子力発電所で知られる川内を大きくかすめるようにカーブを描いて、北海道から始まり列島を貫通する新幹線路線図の最南端へ到達した。時計を見るとまだ午前10時過ぎで、四国からここまで時間的には本当にあっという間。しかし身体には遠くへやってきたなという感覚もあった。早く外の空気を吸いたかったので、足早に真新しい駅舎を抜けて外へ向かう。

「強烈な太陽!」


「強烈な太陽!」。それが久しぶりに訪れた鹿児島の印象だった。2009年奄美大島へ皆既日食を見に行った時以来の再訪だ。日差しから逃げるように、目の前に到着した路面電車へ飛び乗る。鹿児島随一の繁華街・天文館で電車を降り、山形屋百貨店のドーム屋根の塔屋を持つ壮麗な洋風建築を横目に、商店街沿いに海の方向へとひたすら歩く。いつしか商店街は途切れ、殺人的な南国の日差しに意識が朦朧としてきた。

道路の角を曲がった途端、目の前のビルとビルのあいだに巨大な山塊が見えた。桜島だ。もくもくと噴火口から煙が上がっていて、この近さで市街地と活火山が同居するダイナミックな景観に息をのむ。ふと足元を見ると、道の隅には黒い砂が盛り上がっていた。ものすごい量の火山灰だ。雄々しくそびえ立つ桜島に元気を注入された気がして、ふたたび地図を確認して歩き出す。

やっと辿り着いた鹿児島港の客船ターミナルに入ると、なかは人でごった返していた。さすが世界遺産、こんなにもたくさんの人が屋久島に行くのか……。待合室でなんとか空いている椅子を見つけ、肩に食い込んだバックパックを降ろすと、身も心も軽くなった。正午を少し回ったところで、ざっと周囲を見渡してみても、アサノさんはまだ到着していない様子。これだけ人がいると時間がかかりそうなので、先に船の切符を購入しておこうと窓口へ向かった。

改めて切符売り場を見ると、屋久島行きと種子島行きの窓口があり、列をなす人々はほとんど皆、種子島行きの窓口に並んでいることに気づいた。後から知ったことだが、人口は屋久島の1万2000人に対し、種子島は3万人と倍以上多い。さら種子島には、屋久島への約半分の時間で行けるので運賃も安い。鹿児島県民にとって、夏の海水浴などで身近なのは圧倒的に種子島のほうらしい。

混み合う種子島行きの窓口に対して屋久島行きの人は驚くほど少なく、あっという間に自分の順番がやってきた。ネット予約していたので、手続きもすぐに済み「Boarding Pass」と書かれた搭乗券を渡される。

チケットを買って椅子に戻ると、ちょうどアサノさんが到着したところだった。種子島行きの船が出発すると、ほとんどの人は出払ってしまい、ターミナルの中も急に静かに。アサノさんがチケットを買い終わるやいなや、屋久島行きの高速艇トッピー(トビウオの意味らしい)の出発時間が来たことを告げるアナウンスがあった。いよいよ出港だ。僕たちは荷物を背負い、ピンク色の2階建ての船体に飛び乗った。

出港してすぐ、窓の外には視界いっぱいに桜島が見えた。やはり鹿児島のシンボルにふさわしい圧倒的な存在感。遠くから見るとまるでオモチャのような色とりどりの桜島フェリーが、湾の上を何艘も行き交っているのが見えた。

薩摩半島の南端、ピラミッド型の開聞岳を過ぎると……


薩摩半島の南端、ピラミッド型の開聞岳(かいもんだけ)を過ぎると、いよいよ本土ともさよなら。目の前には島一つ見えない太洋が広がり、たまらない開放感だ。視線が消失点に辿り着く前に、必ず島影にぶつかる瀬戸内海とは対照的な風景。同じ海とは思えない。水平線を眺める目で地球の丸さを実感しつつ、早起きの疲れが出たのか、自然と眠りに落ちてしまった。滑るように海上の道を南へ進む船の振動をかすかに感じながら。

目が覚めた時には、きっと約束の地に着いているだろう。


*本連載をまとめた宮脇慎太郎の旅行記『流れゆくもの-屋久島、ゴア』をサウダージ・ブックスより刊行しました。続編「Road to Goa」や「あとがき」は本書でお読みください。

『流れゆくもの-屋久島、ゴア』


著者プロフィール



宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう)

写真家。瀬戸内国際芸術祭公式カメラマン、専門学校穴吹デザインカレッジ講師。1981年、香川県高松市生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返し、日本列島では聖地と呼ばれる様々な場所を巡礼。2009年、東京から高松に活動の拠点を移す。2020年、香川県文化芸術新人賞を受賞。著書に写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』、旅行記『流れゆくもの–屋久島、ゴア』(以上、サウダージ・ブックス)ほか。https://www.shintaromiyawaki.com/


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