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鎮守の杜と災害大国から見たSDGs(Ⅰ)


「鎮守の杜」と聞くと,一般の方は【神聖】なイメージを持つのではないだろうか。一方で,神職の方々は,「落葉掃きが大変」「台風で社殿などに木が倒れないか心配」など,いわゆる【厄介】な一面を持つ方もいらっしゃるかもしれません。今回より三回にわたり「鎮守の杜」について特集するが,皆様の知らない「鎮守の杜」の歴史・機能・創り方・管理方法について紹介したいと思う。

【杜】と【森】の違い

 まず,「鎮守の杜」と「鎮守の森」,【杜】と【森】の違いから触れる。これは諸説また例外はあるが「神域」に近いか,そうでないかの違いとなる。また,「杜」は国訓,いわゆる【日本独自の読み方と意味を持つ漢字】のため,中国では杜(ト・ズ・ヤマナシ)と読み,「ふさぐ」意味を持ち,「杜絶」と表記される場合もある。「ふさぐ」の意味から「もり」をすぐに想像できないが,神社は特別で周りから杜絶された場所と考えられることから,神社の木立を「杜」と表現し「守(も)り」の意味に繋がるとする説もある。また,平安時代以降に示偏の社(やしろ),木偏の杜(もり)と使い分けられるようになった例もある。

宇佐神宮の鎮守の杜

日本の森林の概要

 鎮守の杜を語るには,まず日本の森林の概要について語る必要がある。日本の森林率は約七割(二千五百万ヘクタール)と世界第二位(先進国内)の森林率とされ,その中で人工林は約六割,天然林四割と記されている。しかし,ここでいう天然林は伐採した後に自然に生育する雑木林(二次林)も含まれている。また,日本は南北に長い島国であることから,東北地方では落葉樹林,関東以西では常緑樹林が主体の森林が成立するため,多種多様な森の種類がある。しかし,常緑樹林域では原生林(人の手が入っていない森)のような良質な森は一%にも満たないと言われている。そして,そのような森が残されている場所こそが【鎮守の杜】である。もし,鎮守の杜がなければその土地にどのような木々,森林が生育していたのか断定することが非常に困難である。鎮守の杜も含めた日本の森みが過去の開墾・開発からどのようにして守られてきたのか,森林保護の変遷を辿ってみる。

宮城県 荒島神社

森林保護の変遷

 森を守る制度は記録上として飛鳥時代から始まり,平安時代には香具山,畝傍山,耳成山の大和三山の伐木が禁止され,時代ごとに様々な禁伐地が選定され江戸時代には幕府有林,大名有林,社寺有林,百姓有(個人有)林などの区分が発生した。そして,一六六六年には幕府が「諸国山川掟」を発出し,森林開発の抑制とともに「川上左右之山方 木立無之所ニハ,当春ヨリ木苗ヲ植付,土砂不流落 様可仕事(川上の左右の山で木立のないところには,今年の春より苗木を植えて,土砂の流出が起きないようにすること)」として河川流域の造林を奨励した。要するに,江戸時代には大量に山の木を切り過ぎて山地災害が多発したことを意味し,その対策として「山川掟」を発出し造林することで防災・減災を実現した。
 前述より平安時代以前から禁伐地とされたのが【神域】だと考えられ,自然崇拝の観点から考えればそのような推察は不思議ではなく,それこそが今日の「鎮守の杜」が守られてきた【本質】だと考えられる。しかし,全国にある「鎮守の杜」が全て原生林のような森とは限らない。それは各神社の歴史や伝統などによって目的や内容が異なるため,場所によっては森林がない神社もあると考えられる。また,神社に外来種や園芸種が生育しても一般的に見たら,鎮守の杜として認識されている可能性がある。そこで,その土地本来の木々によって構成された鎮守の杜を見分ける方法としては,常緑樹林域であればドングリをつける木々もしくはタブノキがあるか,落葉樹林域ではドングリをつける木々もしくはブナがあるかが大きな判断材料となる。なぜなら,日本の多くの森林の優占種はドングリをつけるブナ科のため,ブナ科の植物の有無が鎮守の杜かどうかの判断材料となる。しかし,前述にもあったように日本には多様な気候・環境が存在するため一概には言えない。他にも,神社に生育する植物が在来種か外来種もしくは園芸種か見分けるには,木々の実生と呼ばれる種から発芽した子孫が林床で見つかれば,まず在来種の可能性が考えられる。なぜなら,その土地本来の植物であれば,子孫を残して次の世代へバトンを渡すことができるからだ。このような【持続可能な森】であることが,鎮守の杜である必要条件の一つとなる。

ドングリ拾いをする小学生

スギ・ヒノキの人工林の未来

 ここで無視できない樹種がスギ・ヒノキである。境内もしくは神社の周りに生育していることが多く,日本書紀や出雲国風土記に記されていることからも重要な樹種であると考えられる。また,現代においては日本の森林の約六割がスギ・ヒノキだが,その造林の歴史についてはあまり知られていない。明治四十年(一九〇七年)には政府より「植樹奨励事業」が開始し,本格的な造林が始まるが,当時はケヤキ・クスノキ・ウルシ等の八種が特用樹種として補助対象となった。しかし,日露戦争をはじめとした戦争の影響により天然林の伐採と造林が加速し,終戦後の一九五〇年には「造林臨時措置法」が制定され,日本全国の森林所有者が造林しない場合は第三者が造林することができ,これによって今のスギ・ヒノキの人工林を築き上げた。スギ・ヒノキを造林することで数十年後に高い収益が得られる経済林を創出する予定であったが,実際は花粉症という現代病を創出してしまった。スギ・ヒノキは日本にとって重要な経済林であるのは間違いないが,当時の画一的な国策が様々な問題を引き起こしたと考えられる。また,それに加え現在の木材自給率は約三割と低い。一方,それに比べ林業が盛んなドイツでは森林率が約三割であるにもかかわらず木材自給率は約九割と非常に高く,林業に対する意識と行動が日本との違いだと考えられる。実はドイツでは人が手をかけない天然更新と針葉樹(スギ・ヒノキなど)と広葉樹(ドングリなど)の混交林を軸とした林業を行っており,現在では混交林は約四割に達している。
 日本も天然更新を行いドイツのように自然と経済の両立を図りたいが,日本の常緑樹林域においては天然更新が難しい状態にある。現在の大きな問題としては鹿による食害が挙げられ,鹿により木々の実生が食べられ,世代交代ができない状態にある。鹿の頭数は一九八〇年代には二五万頭だったのが,現在ではその約四倍にまで増えている。鹿が増えすぎた要因としては,一説によるとニホンオオカミが絶滅し,鹿の天敵が自然界から消失することで個体数制限が効かなくなったと言われ,ニホンオオカミの絶滅も諸説あるが,人間が絶滅させたことが原因と言われている。

オオカミの足跡(ヨルダンの森林調査中に発見)


 鹿の食害によって天然更新・混交林が難しい人工林を変えるためには,その土地本来の植物で構成された持続可能な「鎮守の杜」が鍵を握っている。鎮守の杜にはその土地本来の木々が生育しており,次の世代にバトンを渡せる【母樹】がある。日本の森を守り,繋ぐためには「鎮守の杜」が不可欠となる。しかし,どの木がその土地本来の植物なのか,もしくは【持続可能な鎮守の杜】なのか判断が難しく,歴史や伝統も加味するとさらに複雑になると考えられる。ここでは白黒をつけたいのではなく,まずは各々の現状を知るということ。外来種や園芸種,それも一つの【命】であり,「雑草という草はない(昭和天皇)」にもあるように,彼らを認めたうえで自然と人間との上手な付き合い方,共存共栄の道を探す必要がある。古来,持続可能な生き方・考え方を行ってきた神道だからこそ,混沌かつ自然に翻弄される日本と世界に光ある未来へと導くことができると確信している。

次回

 次回は全国の鎮守の杜の植物や御神木にも焦点を当て,知られざる植物の機能や役割についてご紹介し,【厄介】というイメージの落ち葉を一掃したいと思う。ぜひ企画に参加していただき,「読んで終わり」ではなく皆様と一緒に「鎮守の杜」を知り,守り,繋いでいきたい。

(Ⅱ)へつづく

※このnoteは月間若木12月号(令和3年)より加筆修正したものです。

<著者>
株式会社グリーンエルム代表取締役社長
里山ZERO BASEプロジェクト代表
林学博士 西野文貴

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