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待つ指導の難しさ

わたしは学校の先生にインタビューする仕事をしてきた。ベネッセ時代は、約500人の高校の先生に話を聞いて、記事をつくった。教育情報誌の編集をしていたのだ。

インタビューの中で、よく先生から聞いたのは「待つ指導の難しさ」だった。
子どもたちができないことに対して、すぐに手助けをすることは教育ではない。その子が「できるようになりたい」と思っているならば、できるようになるように最適なサポートする。それが、教育である。そんな精神をよく感じさせてくれた。

先回りして、ありとあらゆることをしてあげることは、その子の成長にはつながらない。むしろ、阻害する要因になる。おせっかいは、時に自走する力を奪うことにつながる。

だから、ただ子どもがかわいいというだけでは、教師にはなれないと、私は思う。
子どもを大切に思うことは大前提だけれど、「子どもの力を伸ばしたいと心底思い、そして、だから今は手助けをしない、という決意と覚悟ができること。それが、よい教師なのではないかと思っている。(賛否両論あると思うが。)

第一線で教育現場を牽引していた先生方は、そうした「見守る」、ステイのタイミングを見極めることを、「待つ指導」と呼んでいた。これは放置とは違うし、生徒との信頼関係がなければ「なんで先生は僕のことを助けてくれないんだ」と心が離れる可能性がある。そして、何よりも、子どもの成長する力を信じて待つことは、教師として「怖い」ものでもある。

でも、この待つ指導により、生徒は劇的に力を伸ばす。手をかけ尽くしてきた子どもよりも、ずっと力強く。

最近、この「待つ指導」は、教師だけに求められるものだけではないのではないかと思うようになった。

親として真に子どもの成長を考えるならば、「待つ」必要がある。
上司として真に部下の成長を考えるならば、「待つ」必要がある。

そんなことを思うのだ。

「この年で、ここまでできないなんて恥ずかしい」
「ちゃんと教育できていないと思われていないかしら」
・・・それは、本当に「子どものため」だろうか。立ち止まって、少し先の未来を見据えてみるといい。「できないこと」は問題ではない。「できるようになろうとしないこと」が問題なのだ。
「できるようになりたい」と心にスイッチを入れたら、あとは待つこと。なんでもかんでも、周りのペースに合わせて習得させようお膳立てするのはエゴに近い。
愛情を持って信じて待つことは、とても難しくて、苦しいものだけれど。

「待つ指導」が社会に浸透すれば、自ら成長し、自ら道を見つける人が増えるのではないかと思う。子どもよりも少し先に生まれた私たちが、決して彼らに対してできることは教え込むことではないのだ。

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