熱中のパワーは、「やりたくないこと」に転用できるのか?中高生と話し合った。
福岡県みやこ町で行われている「三四郎の学校」。「三四郎の学校」は、中学生・高校生が教科書も先生もなく、対話をもとに未来を考えるワークショップです。7月15日に開催された第24回のテーマは、「『対話』を楽しむ! 『対話』で学ぶ!」。ワークショップの様子を”佐藤の視点”でお届けします。
■「なぜ趣味には熱中できるのか?」
最初のお題は、「なぜ趣味(ゲームやマンガ)には熱中できるのか?」だ。熱中することを分解し、主体的に取り組むパワーとは何かを解き明かすのが主題だ。若干、班によっては「趣味とな何か?」に引っ張られてしまった感はある。とはいえ、少なくとも私が体験した班では、趣味の内実に迫ることが熱中のパワーの解明にもつながっていた。
趣味とは何かと話をした際にあがってきた要素は、以下の2つの観点だ。
・自分で選択しているもの(強制されていない、自分らしさ)
・自分の限界に挑戦しているもの
班メンバーの多くの人が、比較的ストイックなイメージを趣味という言葉に抱いていることが伺える。事実、趣味とは「没頭すること」であり、「楽しいこと」とは違うという価値観もシェアされた。
ワールドカフェから戻ってきたメンバーは、さらに思考を深めていた。
趣味とは、
・誰にも邪魔されず、評価されず、自分と向き合うこと
・同じ価値観を持つ者と一緒に過ごすことにより、自己肯定を高めるもの
自己との関係性と他者との関係性の両側面に触れている点が非常に興味深い。結果的には、「誰にも邪魔されず、評価されず、自分と向き合うこと」が、次の議題へと生きることになる。
■「嫌いな教科でも熱中するアイディアとは?」
こちらも、一旦は「嫌いな教科」の話に終始した。「なぜ嫌いなのか」「好きな教科との違いは何か」、そんな対話を繰り返した。だが、対話を深めていく中で、「熱中を嫌いなことに転用する」、”なーるーほーどー!”な視点が出てきた。4つ紹介する。(解ではなく、あくまで佐藤が納得した視点です。)
1. 教科をツールにする
学校では、教科の内容の習得自体が目的になっている。「数学で100点取りましょう」「英語で偏差値60を目指しましょう」というように。しかし、本来教科とは社会に出た時に活用する道具のはずである。だからこそ、そのツールの役割に戻してやることによって、「嫌いな教科でも熱中することができるのではないか?」というアイディアが出されだ。
例えば、外国人の彼女ができれば下手くそでも話そうとするし、思いの伝わる単語を必死に調べる。英語がツールとしての役割を取り戻し、目的に向かって、高められていく。
また、どうしても作りたいモノに数学と物理の知見が欠かせなければ、必要に迫られて公式を調べるはずだ。
教科を目的ではなく、どうしても達成したいものに使うツールの役割にしてあげることにで、嫌いな教科にも主体的に取り組むことができるという発想だ。
2. 「楽しさは伝染する」を知る
多くの中高生から、「あの先生が嫌いだから、数学が嫌いになった」という教師と連動した「教科嫌い」の声がよく聞かれた。人間同士なので好き嫌いはあるものだ、なんて言っても解決しないので、方法はないか対話してみた。
好きな先生の共通項を中高生に聞くと、「その教科のおもしろさを伝えてくれる」ということだった。前段の「なぜ趣味には熱中できるのか?」で脱線して、「なぜ人はそれぞれ違う趣味を持つようになるのか」という話にもなった。それに対して、「環境要因も大きいのではないか」という意見が出された。例えば、マラソンが好きな子は「父親が走るのが大好きだったから自分も好きになった」という。つまり、「楽しさは伝染する」ということを理解して授業に臨むことで、少し事態は変わってくるかもしれない。
つまり、先生たちがワクワクして楽しさ爆発させて授業をする。先生たちには、指導要領で教える内容が決まっていたり、入試までになんとか内容を教え終わるためにある程度の進度が必要だったり、入試学力をグイグイ上げなければいけないというプレッシャーがあったりする。が、あえて、ここは急がば回れ。変態的に自分が教科の醍醐味を伝える機会を設けたほうが、生徒たちに楽しさが伝染し、主体的に学びに向かうようになるかもしれない。
3. 評価エントリー制
もう1つ、中高生から「嫌いな教科」の理由として多く挙げられたのは、「できないから」というもの。本来、「好き・嫌い」と「できる・できない」は別の軸のはずである。しかし、多くの生徒たちは「できないから、嫌い」と答えている。
それはなぜか?というと、「みんなと同じペースでできること」や「人と比べて理解していること」などが重要視されるから。他者と比較した評価が、本来の「好き・嫌い」の気持ちを曇らせてしまう。一方で、趣味の場合は、他者から認められるために行うわけではない。むしろ、「やめろ」と言われたとしても没頭してしまう。
そこで、「評価を撤廃してはどうか?」という話に展開した。
しかし、実は趣味にも「マラソン大会に出場して1位だった!」とか「絵画コンテストで入選した」とか評価の場面はある。しかも、褒められる場合にはモチベーションが上がり、さらなるやる気につながる。つまり、評価が一概に「悪」なわけではなく、評価の方法に問題があるのではないかという視点が提示された。
では、「自分が望んだ時にだけ評価される」という仕組みにしてはどうだろう? すなわち、「評価エントリー制度」のような形だ。「主体的になれ」といいながら、評価だけ「受動的」なのはおかしい。評価されるかされないかも、「主体的に選ぶ」ことができれば、”「できない」→「嫌い」→「やりたくない」”の負の連鎖を脱することができるかもしれない。
4. 熱中の軸を持つ
最後は、熱中の軸を持つという案だ。嫌いなものを必死になって、好きになろうとしてもおそらくそれは奏功しない。そちらにパワーを割くのではなく、好きなことを徹底的に好きになる。”尖った熱中”を持つことにより、他のものへそのモチベーションを横展開していくことができるのではないかという発想だ。
現在、学校制度の便宜上、5教科7科目に振り分けられているにすぎない。本来は、教科間でつながる部分もあれば、より深く理解したいと思ったら他の教科に分け入っていかなければいけない場面もある。その特徴をうまく利用し、「熱中できる軸」の延長戦上に「嫌いな教科」を持っていくことで、「嫌い」を克服するというアプローチもあるのではないか。
■まとまらない、余談
あくまで私の視点だが、「なぜ趣味には熱中できるのか?」と「嫌いな教科でも熱中するアイディアとは?」の2段階構成のワークショップの対話展開をお届けした。1段階目の問と2段階目の問を行ったり来たりできる人がどれだけいたか…という懸念は、振り返り会の際にも出されたが、少なくとも私としては、この脳内の反復横跳びは息切れしながらも心地よいものだった。
もちろん(?)、未だモヤモヤしていることもある。
それは、人にはデフォルトで「熱中する力」や「成長欲」が備わっているのかという疑問だ。きっと備わっているものだと信じたいが、「そうでもないのかもな」と思うこともある。幼少期に潰されてしまっている可能性も、大きいだろう。
また、趣味の話の延長線上で、「誰に頼まれたわけでもないのに成長し、自身の限界に挑戦できるって、贅沢なことだよね」という話になった。今日生き残れるかどうかという不安定な状態では、趣味の枠組みで成長しようとは思えない。だから、いわゆる趣味での成長欲求とは「人間らしい暮らしをしている者の嗜好品」なのかもしれない。
生きていくために必要なわけでもなく、頼まれたわけでもないのに、なぜ人には熱中や成長欲求が搭載されているのか? そして、それはすべての人に搭載されているものなのか?
そのあたり、ひとりでしばしの間、反芻テーマにしてみようと思っている。
おわり
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